独裁主義や全体主義では、差別を手法として用いたのだろう

 ナチズムには差別が内に含まれているので、表現の自由には値しない。そうであるのなら、共産主義にもそれが言えるのではないか。こうした指摘があったんだけど、そもそも、差別が内に含まれているから表現の自由には値しない、とはいえないのではないかという気がした。表現の自由に値しないかどうかは、公共の福祉に反するかどうかによるとされる。なので、差別が内に含まれているかどうかはまた別な問題なのではないか。

 表現してはいけないというわけではなくて、公共の福祉に反しない形であればそれは可能だろう。なので、そのような形になるように工夫して語ればよいのではないか。たとえば憎悪表現みたいなふうになってしまうと支障があるが、そうではないようなものであれば、まちがいの経験から教訓を得ることもできる。

 差別だからだめだったというよりは、独裁主義とか全体主義だったからだめだったということもできる。そこがごっちゃになるのはどうなのだろう。少なくとも、差別というのに集約はできなさそうだ。差別から悲劇がおきたということもできるだろうけど、それと同時に、一国のなかで全体化がなされてしまったために、ただ一つの教義(ドグマ)だけしか許されないようなふうになったのだろう。

 共産主義といっても、キューバなんかは必ずしも失敗したとは言えないのではないか。医療なんかが充実していて、アメリカから病を抱えた人が訪ねてくるくらいだというのもあるそうだ。医療などの福祉に力が入れられていて、みんなの生活が保障されている。そこには、完ぺきなものではないにせよ、友愛と平等がなしとげられていた面がありそうだ(少なくとも資本主義よりは)。

 共産主義ばかりではなく、資本主義においてもまた、差別による悲劇はおきているのではないかという気がする。それは現在進行形の形としてありそうだ。経済格差で貧しい側に立たされてしまうのには、本人がそう望むのでないかぎり、とくに正当な理由がない(いろいろな理由づけはできるにしても)。労働のなかで不当に搾取されてしまうこともある。くわえて、健康で文化的な生活を送るのに欠かせない基本的必要さえままならないような人も少なくはなさそうだ。こうした問題が放置されたままになってしまっているのが現状なのではないか。

 差別というのは、どのような社会であっても、その根底に存在しているものと見なせる。なので、それをできるだけなくしてゆくこともいるだろうし、満面開花させないように気をつけてゆくこともいりそうだ。共産主義は、歴史においてそれを満面開花させてしまったことがあるかもしれないが、資本主義もまたけっして人ごとではないだろう。

 いま資本主義がまがりなりにも成り立っているのは、社会主義による社会化がなされて、純粋な資本主義という形をとってはいないことにもよっている。社会化された資本主義となっている。これは社会主義の残した正の功績であると言ってもさしつかえないだろう。たんなる市場主義だけであれば、経済格差がとんでもないことになり、早々に立ちゆかなくなることは間違いなさそうだ。

 歴史的に悲劇をうんでしまったようなまちがった過去のできごとでも、それを語り継いでゆくことの意義というのはありえる。自由主義史観みたいにして、それを都合によって修正してはまずいことになりかねない。個人的なことであればまた別かもしれないが、集団のことであれば、過去のまちがいについてたえずくり返し反省する態度をとることにも意味はありそうだ。これは、差別に当たるかどうかとはまた別なことがらといえるだろう。

優先度として、どちらが上でどちらが下なのだろう

 自衛隊は、あきらかに軍隊である。そうした自衛隊のありかたがよくないからといって、それなくしてやって行けるとは、大かたの人が思いはしないだろう。自衛隊がなくてもやって行けるというのは、ちょっと現実味に欠けてくる。なので、自衛隊のありかたを認めながらも、憲法(の 9条)を守ろうというのは、おかしな態度である。筋が通っているとは言いがたい。

 この意見には、一理(以上)あるとは思うんだけど、でも腑に落ちないところがあるなという気がした。それというのも、なんで自衛隊憲法のうちで、自衛隊のほうを優先させてしまうのか、という点である。そうではなくて、憲法のほうを優先させるのでもよいではないか。そのように感じるのである。

 自衛隊すなわち軍隊であり、軍隊すなわち憲法違反である。憲法違反には、憲法を修正することで対応できる。たぶん、このようなとらえかたになっているのだろう。こうしたとらえ方もありだとは思うけど、この一つだけが正解であり、これしか見かたとして許されないというわけでもないのではないか。ほかの見かたもとることができそうである。そこは多論理(パラロジー)みたいなのがとれそうだ。

 憲法では、戦争の放棄や戦力の不保持をうたっているわけだけど、専守防衛までは否定していない、とする解釈もなりたつ。そのように言われているから、専守防衛の部隊として自衛隊を位置づけることができる。こうすれば、合憲のなかに自衛隊を置くことができる。

 いや、そんなこと言ったって、自衛隊はすでに軍隊ではないのか。その現実に目をつむるというのか、との批判もありえる。この批判にたいしては、もしかりにそうであるとしても、そこから一義的に憲法を修正するという流れは導かれづらいのではないか。手だての一つとして、自衛隊を軍隊でないようなありかたに変える、というのもありだろう。

 自衛隊の現にあるありかたを認めるために、憲法を修正するべきだ、というのは、一理(以上)あるわけだ。しかしそこには、ともすると憲法よりも(現にある形での)自衛隊をとってしまうという、とりちがえがおきていはしないか。憲法というのは、国の形を大づかみに定めたものでもあるのだから、そこに自衛隊が従属すると見たほうが、しっくりくるような気がする。これが逆に、自衛隊憲法が従属するとなると、ちょっと話がおかしいような気がしないでもない。

 けっして中立的な意見ではないことはたしかで、護憲派の立場に立っているのはあるのだけど、憲法が硬性化されているという点は、小さくはない要素だといえそうだ。硬性化されているということは、変えづらいわけである。とはいえ、どんなことがあっても変えてはならないだとか、どうがんばっても変えることができない、というわけではない。そのうえで、憲法自衛隊のあり方とを比べると、どちらが変えづらいのかといえば、憲法のほうがより変えづらい、という見かたもなりたつ。変えづらいものを無理に変えるというのも、どうなんだろうという気がする。半世紀以上も変わらずにこれまできたのもある。もっとも、それをうら返せば、今がちょうど変える潮目だ、という見かたもとれるのだろうけど。

 ここは見かたが分かれてしまうところではあると思うのだけど、追加的な利害という観点をふまえることができる。この観点をふまえてみると、自衛隊を軍隊であるとして、憲法を修正するのには、追加的にかかる労力や費用がかなりあるのではないか。そうした労力や費用を大幅に上まわる利益があるのかといえば、一部の人にはとりわけあるかもしれないが、全体にとっては定かとは言いがたい。それにくわえて、かりに全体にとってたしかな利益があるとしても、それだけで終わる話ではなく、新たに加わってしまう害もおきてくる。この害をあたかも存在しないものとして見なしてしまうのは、賛同できないところである。

 新たに加わる害なんていっても、そんな抽象的な論を振りかざすのは机上の空論にすぎない、なんていう批判もあるかもしれない。具体的に何が害として新たに加わるのかをはっきりさせよ。このように言われると、いささか耳が痛いところである。そのうえで、たとえば、害として挙げられるものには、これまでの積み上げの破壊というのがあるだろう。戦後にこれまで大切に積み上げられてきたものを、そうたやすくぶち壊してしまってよいものなのだろうか。これは慣習や伝統といったものでもある。こうした戦後の慣習や伝統をすべてまちがっていると見なすこともできなくはないだろうが、そうした見かたが(極端にいえば)すなわち乱暴なぶち壊しにつながる。そのような動きへのおそれをつい抱いてしまう。つくるよりも壊すことのほうが簡単だ。

 いたずらな破壊はどうしても避けてほしいところである。すくなくとも、そう見なされるようなおそれのある要素を、できるかぎり払しょくしたうえでないと、疑いをもたれてしまってもしかたがないのではないか。これは二重拘束(ダブル・バインド)の状況にも通じてくる。けっして悪いようにはしないから、と言われたとしても、悪いようにする魂胆が透け透けであれば、そのどちらの信号(シグナル)を本当のものとして受けとるべきか迷ってしまう。認知に不協和がおきる。

 すべての破壊がだめだというのではない。両義的であるにせよ、破壊的な性格の者がすべからく悪であるとはいえないものだろう。そのうえで、破壊するのをめざすのであれば、それが乱暴や横暴なものではないことを身をもって証明することがいる。この自己証明の努めを怠っているような気がしてならない。たんに信用しろだとか、または力づくであるとか、数にものを言わせるというのでは、途中の段取りがすっとばされていて、あまりにも性急に映ってしまう。

対話における生起確率と不確実性(既知と未知)

 対話によって友好を築く。そうしたことをよしとするのであれば、じっさいに現地へおもむいて、こじれてしまった自他の関係を直してくるべきである。対話することで関係の悪化を解決してくるわけである。これができないようであれば、言っていることに説得力がないではないか。

 対話というのは、お互いに文脈を同じくするもの同士であればやりやすいが、それを異にするもの同士ではむずかしい。言葉もちがえば文化もちがう。そこには通約不可能性がある。まずはそれがあることに耐えないとならない。耐えられずに簡単に放棄してしまうようだと、なかなか話し合うということもできづらそうである。

 ひとつこれは言えるのではないかという点は、対話で友好を築くのをよしとするのは、そういった価値の意識の表明であることがいえる。この表明というのは、表現の自由として見なすことができるものであり、とくに公共の福祉に反するものであるとはいえそうにない。なので、そこはとくに問題があるわけではなさそうだ。

 対話に価値をおく意識を表明するのは、それ自体ではとくに悪いことでもないし、許されてしかるべきである。全面的に受け入れられるかはともかくとしても。そこからつなげて、じっさいに対話の力によって、こじれた関係を解決してくることがいるのだろうか。かりにもしそれをやってくるにせよ、それはあくまでも自発的なものであるのがよいのではないか。そうではなく、他発的なものであれば、他から動かされてしまっていることにほかならない。これはあまりのぞましいありかたではないだろう。

 他発的であるというのは、他の誰かから、それをやれというふうに命じられて、強いられてやることである。そういうありかたはできれば避けたいところである。そうはいっても、世の中におけるものごとが、何でもかんでも自分の意思から発して行われるものではないから、命じられたり強いられたとしても、しかたがないところもあるかもしれない。

 そうした他発的な部分については、気づかぬうちの、権力による自発的服従なんかがからんでくるところだろう。そうした部分をいきなりゼロにすることはできないわけだが、できるかぎり自発的(スポンティニアス)なふうにものごとが行なわれてゆくようにできたらのぞましい。対話というのは、そうしたことの延長線上にあるものとしてとらえることもできる。誰かから言われて、しぶしぶやらせられるのではなく、あくまでも自分がやりたいからやるといったようなあんばいだ。

 現実ではなくてまるで夢みたいな、すごく都合のよい言い訳を言ってしまっているかもしれない。そのうえで、あまり確固とした目的を持ってというよりは、もうちょっとファジーというか、試みみたいなふうにしてやるのもありだろう。使命みたいなのを背負ってしまうと、腰が重くなってしまうから、それは避けたいところだ。企てを持ちはしても、それをあまり強調せずに、柔軟性をもてればさいわいだ。

 苦しみをもたらすものよりも、楽しみをもたらすようなふうにできたらよい。思想家のシャルル・フーリエは、社会主義をふまえるさいに、楽しい労働というありかたを説いたそうである。ここでいわれる楽しさとは、何かと何かを引きつけるような引力をさす。引きつけるはたらきだ。こうした引力がはたらくことで、身体感情が充実してくる。恋愛において、お互いがうまく溶け合うような、そういったありさまにも通ずる。こうした楽しさがあれば、対話もうまくゆくのではないか。

 じっさいの社会のなかでは、楽しい労働であるよりは、むしろ労苦であるほうがふさわしいことが多そうだ。なぜ労苦になってしまうのかといえば、それは一つには、生産があまりにも中心になりすぎているからだといえる。物を作るということの一元論に傾きすぎている。したがって、そのありかたを多少なりとも改めてゆくことがいる。そのさい、実体であるよりも関係を重んじてゆくこともできるだろう。関係を重んじることによって、自他のありかたが揺らいで傾いてゆく。主体どうしがおたがいにぶつかり合うのではなく、場所的な関わり合いができるようになるのではないか。うまくゆけばの話ではあるが。

 フーリエは、コンポートというのをとても愛好したようである。これは果物の砂糖煮のことであるという。むかしは砂糖が貴重品だったから、ふんだんにありふれていたわけではなく、今と比べると日常的に口にするわけにはゆかなかったのだろう。それにくわえて、果物と砂糖という 2つのものの組み合わせで、単体のときよりもよりよいものができあがるのもある。

 果物だけでも、また砂糖だけでも、それ単体としてのよさはあるわけだけど、2つが 1つになることで、そこには相互作用がはたらくことがのぞめる。これが分裂してしまうようだとよいほうには転がりそうにない。なので、分裂させてしまうのではなく、コンポート的にうまく 2つをかけ合わせることができればよいのだろう。そうそううまくゆくことではないかもしれないが。

 このコンポート的なありかたは、音楽でいうと、単音ではなくて、和音によるようなものだろう。あまり音楽にくわしくないので、的はずれになってしまうかもしれないが、和音というのは、ちがったものどうしが重なり合うことによる響きであるとされる。これは、正と反がおきることで合にいたるという、弁証法の流れにも近いかもしれない。そこでは、1つではなく 2つ(以上)であることと、それが異なるもの同士でありながら分裂していないというのが味噌なのだろう。うまく位相が合うといったらよいだろうか、そのようになる可能性はゼロではなさそうだ。

沈黙と服従

 自衛隊の隊員の人たちは、いざというさいに自分の命を捧げてまでも国を守る。そうであるのだから、自衛隊の存在をあいまいなままに放っておかずに、きちんとした位置づけのもとに置くべきである。そうしないと、やりきれないではないか。

 この意見において、まず、前提についてどうしても全面的には賛同ができづらいと感じてしまう。というのも、そもそもが、自衛隊の隊員の人が、できうるかぎり命を捧げずにすむような環境を、全力をかけてつくり上げるべきだという気がするからだ。まずそれがいちばん最初にきたほうがよいのではないか。

 自衛隊の隊員の人が、国のために命を捧げるという前提には、可能なかぎり立ちたくはないのである。いや、そうはいっても、そうした使命を負っているからこそ、隊員として活動しているではないか、との指摘もなりたつ。しかし、必ずしもそうとは言えないのではないか。隊員の人たちに、使命を一方的に押しつけてしまうことになりかねない。

 国を守るという使命をいっさい負ってはいないというふうにしてしまうと、それはそれで行きすぎなのかもしれない。とはいえ、では国を守る使命というのをどこまでも拡大できてしまうとなると、それは避けたほうがのぞましい。拡大していってしまうと、切りがないからである。

 あくまでも浅はかな想像の域を出ないかもしれないが、自衛隊の隊員の人たちは、多数いるわけだから、その人たちがみんな同じ考えかたをもっているとはいえそうにない。色々な考え方の人がいるはずだ。であるから、その色々な考えのありかたを尊重すべきである。これは憲法でも保障されていることではないだろうか。

 そういったなかで、たとえば中には、できるかぎり自分の命を犠牲にはしたくはないという人がいたとすれば、その人の考えを全体の基準にすることはありだという気がする。なにも、自分の命を犠牲にすることをまったくいとわないという人の考えを全体の基準にすることはない。

 アメリカと日本は安全保障で同盟を結んでいるわけだけど、アメリカは日本をいざというときには守るのに、日本は守らなくてもよいのか、との指摘もなされている。しかしその指摘の前に、アメリカはアメリカで、なるべく自国の兵士の人を犠牲にしないですむように、工夫をこらして立ちまわるべきである。そして日本は日本で、自分の国の隊員の人をできるかぎり犠牲にしないですむように、工夫をして立ちまわるべきである。こうすればよいのではないか。

 どうしても欺まんをまぬがれないとは思うのだけど、いくら自衛隊の隊員の人が、国を守る使命を負っているとはいえ、できるだけ国内における警察権の域を出ないようにしたほうが、失われる命が少なくなることが見こめる。殉職というのもできるだけゼロであるほうがよいわけだけど、それを越えてまで、何か政治的崇高によるロマン的なものを背負わされては、かなわないところがある。そういう崇高やロマン的なものがよいとするのなら、意思決定をになう政治家の人が、自分で直接に危険地帯にゆくべきだという気がする。それであれば自主的であり、他から動かされてはいないから、他が強いて止めるには当たらないかもしれない。

五輪の開催に合わせるのは、時機としては適していないのではないか

 2020年の東京五輪において、憲法の改正もそれに合わせてめざしてゆく。安倍晋三首相はそのように述べているのだという。2020年を、新しい憲法が施行される年にしたいそうだ。これについては、正直いって反対の気持ちである。

 なぜ、国際的なスポーツの催しである東京五輪に合わせて、憲法の改正をおこなおうとするのだろうか。そこが腑に落ちない点である。安倍首相のねらいというのは、なんとなく透けて見えてきてしまうところがあるのもたしかである。といっても、浅い見かたをしてしまっているかもしれないから、間違った勘ぐりであるかもしれないのだけど。

 2020年の東京五輪では、ほぼまちがいなく国民の気持ちは高揚する。気持ちが高揚しているというのは、冷静な判断をするような状況にはないことをしめす。いわば、気持ちが浮かれてしまっているのである。そういうところをねらって憲法の改正をはかろうとしているのではないか。五輪のもっている勢いを借りるようなかたちで、憲法の改正もやってのけようとするようなあんばいだ。

 五輪のもっている勢いを借りるようにしてやるのには、賛同できそうにない。逆にもっとしめやかな状況のなかでやるのがふさわしい。というのも、先の大戦において、内外でもたらしてしまった深刻な被害をふまえて、その負の経験が憲法には色濃く反映されているからだ。教訓が盛りこまれ、(一文字一文字に)血と汗と涙が刻みこまれている。決してあってはならないことだが、多くの無実の血が流されてしまった。同じあやまちを再びくり返すことがないように、これからの世代にたくしたその誓いと願いというのは、決して軽いものとはいえそうにない。そこからは、廃墟の大いなる痛ましさを読みとることができる。

 五輪は五輪として、商業的な催しでもあるから、そこで盛り上がるのはけっこうなことであり、とくに問題はない。しかし、それと憲法の改正をからめてしまうことにはどうしても納得できないし、できれば避けてほしいという気持ちがしてくる。それぞれを切り分けてやれるほど器用にできるとは言いがたく、いっしょくたの気分でやってしまいそうなありさまがつい頭に思い浮かぶ。

 五輪というのは、スポーツの競技をするわけだけど、それは国どうしの戦であるといったところもなくはない。なので、そうした催しと、憲法の改正をからめてしまうのは、ちょっと軽率な気がしてこないでもない。そこは、もうちょっと神経を使ってもよいところなのではないか。もっとも、これはいささか難癖をつけているように受けとられてしまうかもしれない。たんなる連想にすぎないともいえそうだけど、先の大戦では、必ずしも必要でなかった国どうしの戦によって、内外に多大なる被害をもたらしてしまったことは、(しつこいようだが)やはりどうしても意識しておきたいと個人的には感じている。

 先において、一文字一文字に血と汗と涙が刻まれているというふうに言ってしまったが、これだと、一文字も変えたり動かしてはならないみたいに受けとられてしまうかもしれない。そういうふうに受けとられるとすれば、それは自分の本心ではないことはたしかである。ただ、こめられた(歴史の流れによる)意味として、軽いものではないとしてみたかったのである。

 どうしても歴史のできごとというのは時間がたつことで風化してしまう面はいなめない。それはしかたがないところもあるが、その流れにのるようにして忘れ去ってしまってよいものではないだろう。忘却とは、より深い記憶のことでなければならない、と作家の安部公房氏は言っている。記憶というのは確固としたものとはいえないから、どうしても揺らいでしまうような面があるが、そのうえで、過去への追憶と哀悼ということがあったほうがのぞましい。

 すでに追憶や哀悼は十分にやってきているではないか、との指摘もあるいはありえるかもしれない。たしかに、まったくやってきていないわけではないだろうが、それはきわめて不十分なものであるのではないだろうか。ごく表面的なものにとどまってしまっているということである。他人にばかりとやかく言って、自分はきちんとできているのかといえば、これもまた不十分であるのは否定できない。であるから、過去への追憶や哀悼というのはできるかぎり重点をおいてやってゆくのがのぞましい。未来を見すえるのは、それが十分になされてからでも遅くはないし、そのほうがよりよい形になりそうだ。

 今の時代の状況から見て、そぐわないようなしろものになってしまったから、それを変えないとならない。そういう見かたはありえるわけだけど、その見かたとはまた別に、われわれの側の理解のありかたが関わってもくる。時代とのずれがあるというのは、それをうら返せば、今の時代の状況への(よい意味での)批判があらわれているとも見なせる。その批判を軽んじて無視するのではなく、(たとえ耳に痛くても)しかるべく受け止めたほうがのぞましいのではないか。

 地と図でいえば、今の時代を図に当てはめられる。そうすると、古くなってしまったものは地に当たるわけだ。しかしこれを逆にすることもできるのである。今の時代を地にすることもできる。これは見るさいの焦点の当てかたのちがいによっておきることだ。したがって、現在の地点を一義的に重んじることはできづらい。そこに視点を固定化することは必ずしもできそうにない。相対化できるわけである。

 チャールズ・ダーウィンの進化論みたいにして、現在の地点にいるわれわれが、これまでのものと比べてもっとも優れているとはならないだろう。いわば進化の頂点にいるかのように、われわれ自身を当てはめてしまってはちょっとまずい。そういったわけで、たとえ古くなったしろものであったとしても、現在の状況とのずれにおいて、必ずしも現在の状況のほうを正しいものとすることはできそうにない。そこは、少なくとも検討の余地があるのではないか。現在の状況のほうこそがまちがっているかもしれないからである。

 過去と比べて、進化したり発展したところもあるだろうし、また逆に退化して愚かになったところもあるかもしれない。なので、総合して見るとどうだかわからないところがある。そういうところからすると、現在の状況を優位において、過去のしろものを劣位(下位)におくのには、疑問の余地が残る。そこは対等にすることもできるのではないだろうか。過去のしろものからの、現在への批判的なまなざしというのは、見すごしがたいものがあるような気がする。

不倫の字の成り立ち

 不倫は、浮気することでもある。それで、不倫というのはしばしば報道によってとり上げられて、世間をにぎわすものであるけど、この語の不と倫の字について着目することもできそうだ。なんでも、倫というのは人々のまとまりをあらわすらしい。そこからすると、倫が不になるわけだから、人々のまとまりである関係性が壊れたり崩れたりするようなことをさすといえそうだ。

 家族とか夫婦というのは、そんなに大きな関係性ではなくて、基本としては小さい人と人とのつながりだろう。その形態が壊れてしまうことは、あまり喜ばしいことだとはいえそうにない。しかし、永遠に何の変わりもなく続いてゆく関係性というのはありえないものだともできる。形あるものはすべて損なわれていってしまうものだし、乱雑さ(エントロピー)がおきてしまうのを避けられそうにはない。これは自然の無常のなり行きだ。

 あらためてみると、もしかりに即物的に見ることができるとすれば、不倫というのは一つの現象であると見なすことができる。それは決してよいものであるとはいえないだろうけど、まだ不倫という言葉が当てはめられる前の段階と言ったらよいだろうか。そこに、不倫という言葉が当てはめられると、相当に悪いことであるというような印象がなりたつ。

 こういったような印象をもたらすことをふまえると、不倫という漢字のもつ力はすごいなあという気がする。もともとは、ばらして見れば、倫と不という 2つの字から成り立っているものだけど、これが組み合わさることによって、否定の意味あいが強くあらわれてくる。これは、道というのを連想させるところからくるものかもしれない。

 何か一つのあるべき道というのがあって、その道から逸れてしまうことを、あってはならないことだというふうに見なす。こういう見かたがあって、不倫というのは道から逸れてしまうようなありかただというわけである。道から逸れてしまうことはあまりよいことだとはいえないかもしれない。そのうえで、そもそもの道である制度が、その設計自体が今の時代に合わなくなってしまっていたり、無理を強いてしまっていたりするかもしれないから、道のありかた自体を見直すこともいるような気がする。

本質という準拠点は、絶対的なものであるとは言えそうにない

 本質に目を向けよ。そこをとっかかりとして足場にすることで、真に意味のある話をすることができる。そういうふうな本質主義みたいなのがある。たしかに、本質的でないことばかりに目を向けてしまっていれば、本質的な話ができなくなることはあるだろう。したがって、本質になるべく目を向けてゆくことがいるという指摘はそれほど間違ったものとはいえそうにない。

 そうはいっても、あまりに本質を重んじてしまうと、人間中心主義みたいなことになりかねないあやうさがありそうだ。人間中心主義というのは、人間と自然とを二項対立させる見なしかたである。これになぜ本質が関わるのかというと、人間と本質とをイコールでつなげることができるからにほかならない。自然は何とイコールになるのかといえば、そこには非本質を当てはめることができる。

 本質を上として、非本質を下と見なすのは、人間を上として、自然を下と見なすことに通ずる。これは、人間が自然を支配するありかたとなる。一方的に搾取する。これをうら返せば、自然が人間に支配され搾取されることになるわけだ。

 人間が自然を支配することに、いったい何の問題があるというのか。とくに何の問題もないではないか。そのようなふうにも見ることができる。そのうえで、もし問題があるとすれば、それは人間が自然を支配してしまうことにおいて、とくに何の正当性もないことがあげられるだろう。勝手に人間が決めたことにすぎない。

 自然は人間ではないわけだけど、非本質というのは人間のありかたの一つである。したがって、本質と見なされる人間が、非本質と見なされる人間を支配することにつながりかねない。これはあまりのぞましいあり方とはいえないものだろう。そもそも人間は、誰からも支配されず、また逆に支配せずにいることができれば、それに越したことはない。

 非本質であるよりかは、本質によっていたほうがどちらかといえばよいわけだけど、だからといって、本質たる人間が非本質たる人間をしいたげてもよいということにはならない。人間が自然を支配するといったような図式にならないようにできればのぞましい。

 そうしたようなことで、本質主義よりも遠近法主義(パースペクティビズム)であったほうがよい。個人的にはそのように感じる。自分の本質というのを、たまにはカッコに入れて、哲学の現象学でいわれる還元することができたらさいわいである。

 本質というもののなかには、たとえば現実であるとか、または国家であるとか、もしくは民族であるとかいうのを代入することができる。それが先立つとするのが本質主義であるだろう。しかしそうではなくて、実存主義でいわれるように、実存のほうが本質よりも先立つ、というふうに見ることもできる。こうしたありかたをたまにはとってもよいだろう。

来年から楽をすることの妥当さ

 来年から楽をするのはずるい。学校の PTA の活動をある時点でもしやめるにしても、それまで PTA にたずさわっていた人が、不当に苦労していたことになってしまう。浮かばれないではないか。こうしたところから出てきた意見なのだろう。正直いって、この意見は分からないでもないなという気がしてしまった。

 たとえば教育の無償化なんていう案が、憲法の改正とからめて訴えられているけど、これにも同じようなことが言えそうだ。もしこの案が現実になって、さあ来年から教育は無償化ですよとなったとすれば、来年から無償になるのはずるい、ということも言えるのではないか。それまで有償で苦労して負担していた人の苦労はいったい何だったのだろうか。浮かばれないような気がする。

 もし現状のありかたがまちがっているのだとすれば、それをそのままにせずに、変えてゆくことはあったほうがよい。それは大かたの人がそう思っているところだろう。そのうえで、新たにおきてきてしまう不平等の問題というのがある。時間または空間の分断による。この不平等はどうやって解決したらよいのだろうか。そこが難しいところだという気がする。

 新しいありかたにおいては、みんなが平等に楽になるのだから、それでよいではないか。または、めぐりめぐってみんなに益になるのだから、つべこべ言わずに従うべきである。そういうふうに言うこともできるだろう。たしかにその言い分には正しい部分があるとは思うんだけど、全面的には腑に落ちないこともたしかだ。どこかに新しく不平等がおきてしまうのであれば、それはそれで(できればということではあるけど)なるべく正されるのがのぞましいのではないか。

 みんなが楽になるのなら、それに越したことはないのはまちがいがない。また、みんなに益になるのであれば、その恩恵が広く行き渡るわけだから、よいことである。そういった点については、より合理的になってゆくのがあるわけだから、理解が進んだほうがよい面がある。そのうえで、そうした合理的なほうへものごとを進めてゆくのとは別に、もっと根源的に、みんながなるべく平等になるためにはといった視点ももてればよいのかなという気がする。やや大げさかもしれないが、新しい犠牲者が多少なりともおきてしまうのであれば、それはどこかにまずいところがあると見なすこともできなくはない。

機が熟したのだとしても、さらによりいっそう機が熟すのを待つという安全策もある

 憲法改正への機は熟してきた。そのように安倍晋三首相は語っている。いままでのように、護憲か改憲かといったやりとりは、それをいくら積み重ねたとしても、もはや不毛である。あまり意味のあるやりとりとはいえなくなった。なので、いままでよりもさらに一歩を踏みこんだ、具体的な行動をとるべきときが来たと見なすことができる。

 安倍首相がいうように、はたして憲法改正への機がほんとうに熟してきたのかどうかは、疑問の余地があるような気がする。そこまで議論が深まっているとはいえないのではないか。そして、護憲であるべきか改憲するべきかのやりとりが不毛であるというのであれば、機が熟したか熟していないかのちがいもまた不毛といえなくもない。

 なぜ、機が熟したか熟していないかのちがいが不毛であると言えるのか。それは、仮の話でいえば、たとえ(安倍首相がいうように)機が熟していると見なしたからといって、そこで速やかに国会で改憲の発議を発して、国民投票にかけるのは性急にすぎるからである。

 一つのやりかたとして、もし憲法改正への機が熟してきたとしても、さらに機が熟すのを待つようにして、より慎重な手順を踏むというのがあるという。改憲の発議をして、そこから切れ目なしに国民投票にかけてしまうのではなくて、そのあいだに 2年くらいの空白期間をもうける。その期間のあいだに、はたして本当に改憲がいるのかどうかを、あらためてより慎重に見てゆくのである。

 たとえ機が熟したからといって、そこで急ぎ足に国民投票までもってゆくことは、必ずしも有益にはたらくとはいえそうにない。そこはあえて(加速度ではなく)遅速度をもってして、その必要さに欺まんやねつ造がないのかどうかを、つぶさに見てゆくのがよいのではないか。1回だけではなくて、何重(幾重)にも機が熟すのを待つようにするのである。

 買いものでいえば、改憲の発議をして速やかに国民投票にかけてしまうのは、衝動買いに通ずるところがある。これだと意思決定を失敗してしまうおそれがいなめない。買いものにおいての衝動買いを避ける工夫のようにして、いったんあえて間を置くというのは必ずしも不適切な抑制のかけかたとはいえないだろう。ひと目見てどうしても欲しいと強く思ったものでも、そこですぐに買おうとしないで、一定の期日をすごすあいだに気持ちが変わることがある。じっさいにはそんなに欲しくはなかったんだとなれば、無駄な買いものをしないですんだわけだ。

 憲法というのは、基本としては原理を示したもので、それは大づかみな価値の方向性をあらわしたものだとされる。であるから、その大きなくくりの価値のなかで、解釈によって許される範囲にとどめておくべきではないか。あとは、憲法の中身を変えるのではなくて、法律をつくることでできてしまうことは、それですましたほうがのぞましい。もっともこの意見は、護憲派に近いものだから、中立的な意見であるとはいえないものだろう。

 憲法が、原理として、価値を示しているとはいっても、それをすべての人が正しいものであると見なすばかりではないのだろう。それはしかたがないことかもしれない。そのうえで、自己保存というのが関わってきてしまう点がやっかいだ。自己保存には自己破壊がふくまれていて、これは自虐とも見なせるものである。この自己破壊を外に向けてしまうと他者破壊になってしまう。自己保存(力への意志)の肥大化による他者破壊への流れは、歴史的にいって、たやすくそうしたほうへ流されていってしまうところがあるのはおそらく否定できそうにない。万人が争い合う相互敵対状態(戦争状態)は、今われわれが置かれている人間関係(国際関係)のありようの一つだ。

 歴史の見かたにはいろいろな立場があるかもしれないけど、一つの見かたとしては、先の大戦において、日本が国として国内および国外の多くの人に多大な被害をもたらしてしまったことがある。そうした深刻な他者破壊のありようを、いま一度あらためて見てみることもいるのかもしれない。そこには、自民族中心主義(エスノセントリズム)だったり、盲目的愛国主義(ショービニズム)だったり、国家宣揚的愛国主義(ジンゴーイズム)だったりといった、反省することができる材料にはこと欠きそうにない。

 滅私奉公のように、国家の公が幅をきかせ、私を押しつぶしてしまったのは、歯止めなき国家主義の暴走によっていた。そうした国家主義をあらためて、個人主義によるようにする。個人主義によるからといっても、国家がまったくいらないとしてしまうようだと、無政府主義みたいになってしまうから、極端になってしまうかもしれない。そのうえで、公をふくらませてしまえば、私がやせ細りすり減って削れてしまう。そうではなくて、(一人ひとりの)私をふくらませられるようなありかたがのぞましい。あるいは、公と私のあいだをつなぐ、共という媒介があるとされるので、それを何とかして形づくるようにできればよさそうである。

 日本の過去にやったことが、ただ一国だけ単独で悪かったとはいえないにしても、後づけで正当化ないし合理化してしまうようであればそれはそれで問題だ。振るってしまった暴力の痕跡というのが残されているわけだから、その痕跡をすべてみなつくりごとだと見なしてしまうのは自己弁護のしすぎになりかねない。もっとも、もし強引な自己弁護でないのであれば、申し開きくらいはあってもよいだろう(一方的に言い分をのまなくてもよい)。

 その負の痕跡がたとえ小さなものであっても、それのもつ意味は決して小さくはない。小さな負の痕跡にも、まともに向き合うべきである。小さいものだからこそ、むしろそこに(大きなものにはないような)重要さがあるとすら言えなくもない。そうしたことをふまえたうえで、作家の星新一氏が言っていたことなのだけど、過去にペーソスをもち、未来にユーモアをもつ、といったように(悲観と楽観のどちらかに極端に偏らずに)つり合いがとれたらよさそうだ。

未来の世代への忖度

 終戦(敗戦)記念日の 8月 15日の前に、談話を発表した。これはいまから 2年前のものだから、話としてはやや古いものであり、それを今引っぱり出してくるのもちょっとどうかなというところはあるかもしれない。そのうえで、安倍晋三首相による 2015年の談話のなかで、(今さらながら)引っかかるところがあるなというふうに感じた。

 それは、以下の箇所である。これからの日本人について、あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。正直いって、この箇所については、ちょっと違和感を感じてしまうところがあるのである。なんとなく引っかかってしまう。

 いっけんすると、子や孫やその先の未来の世代にたいして、おもんばかっているかのようにも受けとれないではない。しかしはたして本当にそうなのだろうか。というのも、未来の世代は、(近隣諸国にたいする)謝罪を喜んでおこないたいという気持ちを抱くかもしれないからである。その気持ちを抱く可能性はゼロとは言い切れない。

 かりに、近隣諸国にたいして謝罪をするのが義務であるのだとしても、未来の世代がその義務を嫌がるとはかぎらないわけである。そのころには、近隣諸国との関係のありかたが変わっていて、お互いに受け入れて受け入れられてといったように、すごく友好的になっているかもしれない。そうであれば、謝罪をすることによって、その友好のきずなをさらに強めることにもなりえる。

 まずひとつには、未来の世代と一と口にいっても、そのなかには色々な人がいるわけだから、あまり一様なものとしてとらえるのはどうなのだろう。それにくわえて、現在のわれわれの(代表の)気持ちのもちかたを、未来の世代に当てはめるのは、ともすると未来の世代にたいして迷惑にあたるのではあるまいか。

 義務というのはたしかに見かたによっては負担になるものではある。なので、謝罪の義務を追わないですむようにしたほうが、そのほうがうれしいだろう。幸せだろう。こうした見なしかたは、今のわれわれ(の代表)がそう見なしているだけであり、未来の世代からすれば、よけいなお世話だとされてしまうおそれもゼロではない。

 未来の世代へ謝罪の宿命を負わせてはならないというのは、どちらかというと自由主義による歴史のとらえ方といえるかもしれない。それは負荷なき自己(集団)のありかたである。そうではなくて、共同体主義でいわれるような、負荷をもったありかたのほうがより具体的な態度といえるだろう。そうはいっても、これはちょっと単純な 2分法で分けすぎかもしれず、またそれぞれの好みにもよるかもしれない。

 負の歴史というのは一つの負荷であり、汚(けが)れみたいなものであるかもしれない。しかしその汚れは、不浄とまではいえないのだとすれば、そこまでやっきになって否定することはいりそうにない。汚れというのは両面価値をもっていて、必ずしも陰性の価値をもつだけとは言い切れないのもたしかである。そこには変革のきっかけがあり、創造性もありえる。うまくプラスに転化しうることもできるとすれば、そうしたほうがよいだろう。簡単な話ではないかもしれないが。