危険さに応じた対策のちがい

 テロ対策については、それをやるかやらないかがある。やらないでいるよりかは、少しでもやって前に進んだほうが、若干ではあるにせよ安全性が高まる。そうしたことが言えそうだ。しかし、そのような見かただけではなく、ほかの見かたもおそらく成り立つ。

 平和主義についてのとらえ方が関わっているとできる。従来のものと、それとはちがった、安倍晋三首相がかかげている積極的平和主義とのちがいがある。なぜ反対の声があるのに、それを押してまでしても、テロ対策をしないとならないのか。それは積極的平和主義がかかわっているせいだろう。

 積極的平和主義では、従来のありかたを大幅に踏み越えた、平和についての世界への積極的な関与をめざしている。とすると、必然的に、どうしても存在が目立ってしまうようになる。目立つというのは、他から狙われやすくなることにつながってくる。狙われやすくなってしまうせいで、テロがおきる確率もまた上がってしまう。

 反対の声が上がっていても、それを聞き入れることなく、テロ対策を強行しようとする。その背景には、戦略としての積極的平和主義がかかわっているのがある。そのような面があるのかなという気がする。

 積極的なものではなく、従来の平和主義の戦略をとるのであれば、反対の声を押してまでもテロ対策を強行することはする必要がない。強行の手段をとらないで、みなで話し合うなかで少しずつ対策の歩を進めてゆくことができる。とはいえ、もしかしたら、とりまく現状への危機意識が足りないのではないか、との批判を受けるかもしれない。そのうえで、へたに危機をあおりすぎず、議論の(過熱ではなく)冷静さというのもあったほうがよいだろう。

 従来の平和主義であれば、かりにテロ対策を行うにせよ、たとえば漢方薬でいわれる上薬のような手が打てる。上薬というのは、穏やかに効き、長期的に益になるようなものである。しかし、積極的平和主義の戦略をとっているのだと、下薬みたいな手を打たざるをえない。下薬は、作用のみならず副作用も強く、長期的には益を大きく損なうおそれのあるものをさす。

 危険性が高まっているのだから、それに対するしかるべく対応をしなければならない。それはたしかにそうなのだろうけど、その前に、とっている戦略から導き出される国際的な目立ちやすさ(プロファイル)の観点がふまえられるのではないか。目立ちやすくて、かつ安全でもあろうとするのは、投資でいえば、ハイリスク・ハイリターンをめざすのに等しそうだ。そこに無理が生じてきてしまうのだとしても不思議ではない。

 もともと、積極的平和主義というのは、従来の意味での平和主義とは異なっているものだろう。したがってそれは、平和主義とはいえないしろものだと言わざるをえないところがある。似て非なるものだ。世界は大国の思わくで動いているところがあるとすれば、そこにわざわざ表だって乗っかるのはいかがなものだろうか。積極的平和主義というよりは、その実態はたんなる大に事(つか)えるだけの、事大主義になってしまう。これは他律によるあり方だ。

 アメリカをはじめとする大国が、平和について的確な判断をこれまで下してきたのかといえば、その逆であると言わざるをえないところもありそうだ(例外は一部あるかもしれないが)。大国にたいして(安全面で)借りがあるにせよ、へたな義務感や義理に、必要以上にかられることはいらないのではないかという気がする。こちらもまた相手へ貸しがあるわけだし。そこは経済学でいわれる埋没費用(の錯覚)みたいなのも多少は関わってくるかもしれない。こちらが埋没費用についてをきちんと認知できていれば、(相手への借りの意識からくる)義務感や義理に過剰にかられることを抑えられる。

読み書き(リテラシー)について

 教育は、基本として、読み書きとそろばん(四則演算)くらいができさえすればよい。じっさいの教育では、それだけではなく色々なことが教えられていて、それはそれで大切なことではある。昔の寺子屋なんかだと、核のようなものとして、読み書きとそろばんくらいに内容が絞られていたのだろうか。

 学校で教えられたことは、そのごの人生の中では、ほとんど忘れられてしまうことが少なくない。なぜかというと、じっさいに教えられたことを使う機会がほとんど無いせいだろう。使うことがないことを頭に詰めこまれてしまっているところがある。しかし、すべての子どもには無限の可能性があるという(大)前提があって、どんな可能性が秘められているのかが定かではないために、いっけん無駄なことのようでも、いちおう意義があるのだとの説明も成り立つ。

 読み書きとそろばんというのは、基本のきであるし、初歩のものにすぎない。しかしながら、あらためて見ると、そろばんはともかくとして、読み書き(リテラシー)というのはあんがいできているようでいてできていないふしがある。世界でおこるできごとや事件にたいして、それをきちんととらえるためにいる条件みたいなのがある。そうした条件をきちんとあらかじめ備えているのかというと、けっこう危ういものだといえそうだ。

 そんな条件など、あらかじめもっている必要などはとくにない。色々なものごとについて、多少の判断を下すくらいのことは、誰にだってできることである。生きてゆくなかで自然と身につけた情報と経験を用いればよいのだ。それに、生まれもって備わっている感性というものがある。そうした感性を十全にはたらかせれば、かりに脊髄反射のようであったとしても、判断がまちがうことはあまりない。直感を信じるようにすればよいのである。

 あまり正確にはわからないのだけど、西洋における、イギリス経験論と大陸合理論のちがいみたいなのがあるかもしれない。ものごとをとらえるさいに、しかるべく前提知識や条件みたいなのを備えておくことがいるとするのは、イギリス経験論に当たるだろう。いっぽう、そうした前提知識や条件なんかが不要だとすれば、それは大陸合理論に当たりそうだ。

 どちらのあり方が正しいのかというのは、一概には言い切れないものだろう。くわえて、かなり大づかみに分けてしまっているために、きちんと的をえているとは言えないかもしれない。そのうえで、読み書き(リテラシー)の取得をあまりに重んじてしまうと、それを身につけるための労力や費用が多くかかってしまうようになる。既製品では間に合わず、自分ならではの必要性があるのも無視できない。自分にとってとくに意味があり、必要なことは、自分だけにしかわかりづらい。

 読み書き(リテラシー)の取得をまったく軽んじてしまってよいのかというと、それはそれでまた別な問題がおきてくるおそれがある。読み書きの取得というのは一種の迂回みたいなものだと言えるとすれば、そうした迂回をまったく経ないで最短距離を行こうとする。こうなると、直接的現前であったり、近道をとろうとしかねない。しかし、文化というのは、こうした直接性や近道を禁じるところに成り立つところがある。

 読み書きの取得についての労力や費用がかかりすぎるようだと、それについてのあきらめみたいなのが生じてしまうのかもしれない。ゆえに、読み書きの取得という迂回を経ないで、それをかぎりなく無くそうとする。こうしたふうになると、かぎりなく読み書きが必要最小限度になるおそれがある。現実の複雑性にたいして、できるかぎりの単純化をするようになる。この複雑さと単純さのどちらかにかたよると、危ないことになるのではないかという気がする。

 何かを象徴としてとらえてしまうと、それがひとり歩きしてしまいかねない。象徴と化してしまうと、部分が(邪魔なものとして)切り捨てられてしまう。部分がなくたって、肝心の本体である幹があればそれでこと足りる。そのように見ることもできるが、しかしたとえとるに足りない枝葉のように見えても、そこが大きな意味をもつこともなくはない。神は細部(ディティール)に宿るとも言われている。中心となる言明にだけ目を奪われてしまっていると、細部がないがしろになりかねない。

 読み書きの構造みたいなのがあって、その構造のちがいというのが人それぞれにあるのではないか。癖みたいなものである。この構造は、ふつうは補強されることはあっても、補正されることはほぼない。補強する機会は日常でいくらでもあるが、補正する機会というのは非日常のごくかぎられたものによるだろう。構造論において、主体というのは、そうした構造のなかのたんなる一部分または結節点にすぎないとされる。構造のにない手である主体は、一つの痕跡でもある。

 われわれは、あまりに当たり前になってしまっているふるまいについて、あらためて見直すきっかけをもちづらい。であるから、たまには自分のよって立つ構造みたいなのを意識することがあってもよいのかも。あまりに当たり前となっている自分の日常におけるふるまいというのは、どうしても意識することが無いものだろう。そうであるからこそ、そうしたところに持ち前の調子だとか傾向(色)が出やすいのかもしれない。偉そうなことを言ってしまったかもしれないが、できるだけ(自分ではなく)他者からの触発を多く受けてゆくようにできればのぞましいと感じている。

安全を期すことにおける、弁証法的な光と影の反転(啓蒙の野蛮化と、理性の頽落化)

 安全ということにかんしては、安全性が高まるか低いままかといったことがある。低いままであるよりかは、少しでも高まったほうが、それに越したことはない。そうしたことが言えそうだ。しかしじっさいには、そのように単純なあり方をしていそうにはない。

 意思決定をする主体の利益というのがかかわってくる。もし自分が利益を失いづらいのであれば、どんどんとリスクをとっていってしまう。なぜそうしてリスクを愛好してしまうのかというと、自分が失う利益が無いか、もしくは少ないからである。逆に、自分が失う利益がもし大きければ、リスクから遠ざかろうとして、回避的になる。

 意思決定をになう主体の利害という観点をふまえることがいる。なにか勇ましいことを言うのは、その裏には、自分が利益を損なわないからという理由による。そのような構造がありえる。こうした構造のほかにも、またちがった構造もあるのだというのを無視することのないほうがよい。

 威勢のよいことを言って、それで受けがよくなるのだとしても、その手法はあぶないところがある。どのような時代においても、たいていは、威勢がよくて勇ましいことを言うのは、受けがよいし通りがよいものであると言われる。逆に、臆病なことを言うのは受けが悪いし通りも悪い。軟弱だと見なされてしまう。

 認識を導く利害関心というのがあるそうだ。これにおいてやっかいなのは、肝心の利害関心というのをかんちがいしていたり、間違ってとらえているおそれがある点である。あるものについて、これは利になるとか、これは害になるといったのを、かんちがいしたり間違ったりしてとらえていると、そこから導かれる認識も大幅にずれてくる。ずれたままで視点が固定化されて、かたくなになることもある。そうであるよりかは、できるかぎり柔軟であったほうがよい。

 いったいに利と害というのは別々ではなく背中合わせになっていることが多い。したがって、それらを別々に見なすよりかは、同じものの別な面として見たほうがよさそうだ。どちらかを強調するのだとしても、それは構造や文脈のちがいでもあるから、一方が完全に正しかったり間違っていたりとはなりづらい。

 いざとなって、何かよからぬことがおこったさいに、そこで追加的にふりかかる利益や害は、人によって異なってくる。そのちがいを無視することはまずい。みんなに平等に利益になるわけではなく、そこに格差(ディバイド)や分断があるとすれば、その溝を隠してしまうのではなくて、逆に光を当ててゆくのがよさそうだ。

敵(遠)と友(近)の、異邦性と同胞性

 けものフレンズというアニメがあるようだ。恥ずかしながら、きちんと見たことはない。このアニメの主題歌を歌う人たちが、テレビ番組のミュージックステーションに出演していたそうで、そのさい、司会のタモリ氏にたいして、イグアナのフレンズだとしていた。イグアナのものまねの芸をやっていたからなのかな。それでいえば、4ヶ国語マージャンの芸もあるから、4カ国(中国や朝鮮半島の国など)とのフレンズでもありそうだ。

 英語にはそこまで通じてはいないのだけど、フレンズという語はよいものだなと感じる。当たり前ではあるが、いかにも友だちだということがありありと迫ってくるかのようである。たとえば花子という人がいるとすると、花子とその友だちは、hanako and her friends となる。このフレーズは、ひとかたまりでグループ化されていて、いかにも一人ではないといったつながりのありようが見てとれる。個で自立していながらつながっているというあんばいだ。and は等位接続詞だから、おたがいが対等でもある。

 なかには悪友というのもあるかもしれないから、そうであれば注意しないとならない。付き合う仲間しだいで、よくも悪くも自分が染まってしまう面がある。ありきたりではあるが、そのように言うことができる。友と見なすからこそ、あえて厳しいことを言ってくることもあるだろう。苦言を呈してくるから敵だとはかぎらない。そうしたことで、友と見なすことができれば、肯定的なものにもなりえる。ちょっとお花畑的な発想かもしれないが、友だちの友だちはみな友だちだ、とのタモリ氏のかつて言っていたことも、たまには思いおこしてもよいものかもしれない。

最低賃金を上げるためのデモ

 最低賃金を 1500円に上げよ。そうしたデモが行われていたようだ。これにたいして、そんなことをやっている暇があるなら、その時間で働いたほうがお金が得られるではないか、との意見があった。デモをやっていても 1銭にもならない。

 機会費用によって見てみれば、デモに参加することで得られる心理的な効用がかかわってくる。この効用がその人の中ではとても大きいものであるとするのなら、デモに参加するのにも合理性があるのではないか。動機づけがはたらく。

 デモに行かずに代わりに労働すれば、確実にお金が手に入ることはたしかだけど、それはある面では分かりきったことにすぎない。新しい価値の創造というのは、不確実なことにとり組むことによってはじめて生まれる面がある。

 うわべではお互いの合意による契約の形に労働はなっているわけだけど、じっさいにはそれはまったくの対等なものではない。どのみちどこかで働くとすれば、多かれ少なかれ雇い主によって搾取されてしまう。労働者というのはこき使われてしまう側にあたるわけだけど、これは権力による支配をこうむることを意味する。そうしたあり方への抗議の面もあるとすると、デモによって声を上げることにも大いに意義があると言えるだろう。

ミサイルの二次被害(危害)

 国外からミサイルが飛んできた。それが国内に落っこちてしまい、大きな被害をもたらす。そのさい、ミサイルを打ってきた国外の相手を責めるのが筋だろう。しかしそうはせず、国内にいる気に食わない人たちを責める。

 なぜミサイルを打ってきた国外の相手ではなく、国内にいる気に食わない人たちを責めようとしてしまうのか。これは、知らずうちに心理的にすり換えてしまっているからだろう。ほんらいは、国外の相手に原因があるわけだから、そこに直接に文句を言いに行くなりやり返しに行くなり自分でしないとならない。しかしそれにはさまざまな個人の費用がかかる。その個人の費用をかからなくするために、ほかの手近なもので代用するわけだ。経済性の省力化の論理である。

 国内にいる気に食わないと見なされる人たちは、とばっちりを食うことになりかねない。ミサイルが国内に飛んできたこととは関わりがないわけだし、ぬれぎぬを着せられてしまう。そもそも、ミサイルを国内に向けて飛ばしてきた国においても、その国民そのものには責任がないこともありえる。責任者というのはおおむね政治権力を握っている、決定を司る者に当てはまるからである。よって、たとえ気に食わないのだとしても、国内にいる人を叩いてしまうのはできるだけ止めたほうがよさそうだ。

ビールと水素水

 ビールはただの水ではない。それと同じで、水素水もただの水ではない。そうした説明がされていた。そもそも、ただの水というのは何をさしているのだろうか。というのも、もしただの水があったとしても、これはただの水ではないんですよ、という説明は成り立つ。そう言われたら、(人によっては)ただの水ではない気がしてくるのではないか。ただの水を一般であるとすると、ただの水ではないのは特殊にあたりそうだ。

 特殊な水というのは、水への信仰みたいなのと関わってくるものなのだろう。ふつう水といえばたんに水分の補給に役立つものである。しかしそれ以上の何かが加わると見ることで、特殊さが出てくる。特殊さが極まれば、奇跡でさえおきるかもしれない。

 ビールであれば、そこにはアルコールが含まれているから、体のなかでは毒としてはたらく。その毒は肝臓で解毒される。効果としては、酔いが生じてくる。酔いやすさは人によって異なり、体が小さい人のほうがわりあい酔いやすいと言われている。

 ビールと水素水を比べることははたして妥当なのかな。水分という点で見るとこの二つは同じものである。しかし、そういうことであるなら、たとえばビールと泥水とを比べることもできる。泥水もただの水ではない。でもこれはふつうは飲もうとはしないから、ちょっと意味あいがちがってくるかも。ただの水ではないものの中には、泥水も含まれることになるから、その範ちゅうの中にはいろんな価値があり、中にはマイナスなものもあるし、ゼロ(じっさいにはたんなる水)なものもまぎれこむ。

 水素水は飲んだことがないからよく分からないが、何らかの効果があると期待されるものだろう。しかしその効果というのは、基本としては因果関係が関わってくる。もしかすると、水素水には何の効果もなく、まったく無意味であるおそれもなくはない。水分の補給以上の意味はとくに無いということである。客観としてはそうだとしても、主観として意味づけすることもできる。これは水素水にたいして意識の志向性がはたらいていることによる。そうなると、かりにただの水であっても、ただの水ではないということになるわけだ。

歴史認識の自由

 自由主義では、言論の自由がある。そこにおいては、これが絶対に正しいといった歴史認識はない。こうしたふうに見てしまうと、何でもありとなってしまう。何でもありというのは、さすがにちょっとちがうような気がする。自由主義だとは言っても、立憲主義的な自由主義であるとすると、つながりとしての公への配慮みたいなのがいりそうだ。自由至上主義であれば別なのかもしれないが。

 絶対に正しいものがないとしても、それだから何でもよいとしてしまえば、自由主義史観をまねきかねない。こうしたあり方はあまりのぞましいものとは言えそうにない。過去のマイナスの歴史からの負荷がまったく無いのであれば、それは非現実的だ。公共の福祉に反しないかぎりでの言論の自由はあるわけだけど、これは多数派だけではなく、少数派にも十分な配慮がなされることがあったらよさそうである。公共のなかには、少数派も含まれているからである。

 正しいものが一つも無いというよりは、正しいものがいくつもある、というふうにも見ることができそうだ。何らかの歴史認識に価値を見いだすのであれば、それを正しいものと認めているからこそ主張することになる。正しくもないのにことさらに主張するとは見なしづらい。正しさによる精神的価値をもつわけだ。そこから、内と外のような線引きができあがる。

 内と外という線引きは、意味によるものである。この線引きは絶対的なものかというと、そうとも言い切れない。というのも、自己同一性(アイデンティティ)とは、絶対的なものではないとされるふしがある。自己同一性は、あくまでも相補的なものであるという説があるそうなのだ。こうした相補的な視点をもし欠くのであれば、ロマン的な虚偽につながってしまう。外との交通をまったくもたない内というのは原理的にありえない。

 あくまでも理想ではあるだろうが、少数派にいかに十分な配慮をすることができるのかが課題だろう。それは、自民族中心主義をできるだけ抑えて少なくしてゆくことにつながる。しかしそもそも、なんで自民族が中心になるのをあえて抑えたり少なくしたりしなければいけないのか。そうした疑問もわく。これにたいしては、排斥という暴力をできるだけふるわないですませるようになるのがのぞましいのがある。

 まわりと同化するようにうながす圧力は、空気を読むだとか、忖度だとかの、和による拘束である。その圧があまりに強すぎると問題だ。そうした同化の圧による画一化は、かえって平等を遠ざけてしまう。たんなる同質化(分身化)にすぎないからである。そこには平等が無いだけではなく、自由もまた無いだろう。

 自民族という名の固定点ないし準拠点を、しっかりとしたものとして築くのではなく、逆に壊してゆくようにする。いまの世の中の流れは、そのようではなくて、自民族を中心にもってきて、しっかりとした足場を築こうとする動きも目だつ。それはそれで、完全にまちがっていることだとは言えそうにない。もっとも、そうした足場や土台というのは、大きな物語(大きな言葉)であり、しばしばねつ造されてできあがるものではある。

 自由のみならず、友好や連帯も少なからず失われつつあり、他との敵対の空気がおきつつあるのも無視できないだろう。この敵対の空気は、市民社会の常態である。そこでは、質をないがしろにした、経済の量的な論理が幅をきかす。くわえて、自民族という名の固定点や準拠点の発想からきているところもある。こうした空気を少しでも変えてゆくためには、包摂からとりこぼされている、排斥されがちな少数者や弱者にもっとまともに目を向けることがいるのだろう。

割って入りかたの工夫

 ヘイトスピーチのデモにたいして、カウンターがおきる。その両者のあいだに、警察が割って入る。両者のあいだでぶつかり合いがおきて、もめごとになってはいけない。そのさい、警察は、ヘイトスピーチのデモをしている人たちではなくて、カウンターの人たちのほうに顔を向けて、一列になって止めに入る。

 ヘイトスピーチをしている人たちをもし火だとすると、それにたいしてカウンターをするのは、油を注ぐことになりかねない。たとえ水をかけようとする気持ちがあるのだとしても。だから、挑発になってはいけないとして、カウンターをしている人たちを警察はいさめる。しかしこれだと、カウンターをしている人たちの腹の中の気持ちがおさまらない。なぜ、まちがったことをしている人たちではなく、それを止めようとしている自分たちに待ったをかけるのか。逆ではないのか、ということだ。

 ふさわしい例えかどうかはわからないが、学校の教室で、授業中に隣の席の生徒からちょっかいを受けて、ちょっかいをしたほうではなく、されたほうが先生から(静かにしろ、などと)しかられてしまう、というのに似ているかな。泣きっ面に蜂のような。ただ、カウンターをする人たちは、直接にヘイトスピーチの対象になっているわけではないだろう。止めに入るという、よいことをしようとしているのに、あたかも悪いことをしようとしているように受けとられてしまう。理に合わない、という心境だろう。

 警察は、一列になって止めに入るさいに、カウンターの方にだけ顔を向けてしまうと、カウンターの人たちを心理的に威圧することになる。なので、一人はカウンターのほう、その隣はヘイトスピーチのほう、というふうにして、交互に反対側を向くようにすればよいのではないか。ちょっと変な光景かもしれないが、このようにすれば、カウンターの人たちの気分を害することも少ない。