会見でのいさかい

 記者にたいして、出てゆけと一喝する。もう二度と記者会見にくるな。そのように言い渡す。東北の震災における復興を担当する大臣が、記者に向かってこのように言ったことがニュースで報じられていた。これは会見のいちばん最後のほうで、大臣の精神がついに高揚の極点にまで達してしまい、おきたことである。

 記者から理詰めでしつように厳しい質問を投げかけられているのなら、精神的に切れてしまうのも分からないではないな、という気がしてしまった。たぶん、推測ではあるんだけど、記者の人は意図して大臣を切れさせようとしていたのではないかとも見うけられる。理詰めでしつように大臣に問うていた記者はよこしまなのかといえば、そうとも言えない。それはそれで、意味のある質問を投げかけていたのだろう。

 なあなあになるのでもなく、かといって売り言葉に買い言葉みたいにぎすぎすするのでもなく、その中間くらいのものがよいのかも。まったく波風がたたないような穏当なものであるのなら、あまり意味があるとはいえない。あるていどは、厳しいことも問わないといけない。まだ解決していなかったり、放置されていたりすることを、率先して表に出してゆくことがいる。

 復興を担当する大臣というのは、推測にすぎないんだけど、たぶん自分の一存で決めているのではなくて、内閣なんかの決定に従っている面もあるのかな。内閣の方針なんかとの整合性のなかで、復興のあり方を決定している。とすれば、大臣というのは、記者なんかから狙いうちにされやすい位置にいることはたしかである。しかしそれでも、批判の声を封殺してしまうのではなく、聞き届けることがいるものでもありそうだ。やっていることがまったく正しいのであるのなら、そうした不満の声がおきることもないのだから。

スキャンダルの解釈

 スキャンダルには、重要度のちがいがある。そのちがいを取りちがえてはいけない。そうしたふうにも言えるだろうけど、別の見かたもできる。文学作品には、主題とつじつま(整合性)と細部、という 3要素があるそうなんだけど、これはスキャンダルについても当てはまるところがありそう。この 3つの要素がもしきちんと見いだせるのであれば、そこには何か特別なサムシングがある。こうした面白がりかたは、不謹慎ではあるかもしれないが。

勝ちつづけること(負けないこと)

 快楽をよしとしたとされるエピクロスは、こんなことを言っているという。議論においては、勝つよりもむしろ負けたほうが、そのごに得るものが多い。負けたほうが、新しく何かを学べるというのである。負けてしまうと、負の感情や情動がついついおきてくることになるけど、それによって反省がうながされたり、次はこうしようなどといった気持ちも芽ばえてきやすい。とはいえ、なかには何も痛痒を感じず、まったく無頓着という場合もなくはないかもしれないが。

 負けつづけというのも気分が悪いものだが、逆に勝ちつづけてしまうのも問題なのだろうという気がする。勝ちつづけてしまうのではなくて、どこかで負けることもいる。勝つというのを過大化であるとすると、負けるのは過少化である。すると、勝つことで過大化しつづけるのは危ない。どこかで負けることによって、過剰さを処理しないとならない。過少化というと否定的なふうに見うけられもするが、あるものが持続して存続するうえでは避けては通れない、欠かせない一面である。

 勝つというのが至上命題みたいになってしまうと、神聖王権のようになりかねない。これは健全なあり方とはいえそうにないところがある。こうした純粋さをよそおう王権のようなものは、神話がからんでいることが否定できない。どのようなものであっても、まったく間違いの要素をもたない無謬なものなどは、現実には考えづらい。無謬さはえてして神話である。

 勝ちつづけるとはいっても、これから先をもし見すえるのであれば、あまりよい手だとは言いきれない面がある。むしろ負けておいたほうが、先につながることがありえる。というのも、いま勝てさえすればそれでよいとしていると、それは無理をしていることになるからである。無理はそう長くはつづかないものである。ほころびによって、きっかけがあれば破綻をきたす。たとえ無理とはいわないまでも、不自然になることはありえる。

 いま勝つことをことさらに重んじてしまうと、いまさえよければという、現在中心の一元論になってしまう。過去や未来はある種の他者なわけだけど、そのような他者である異質なものをこばむ。そうしたありようだろう。いまの困難を何とかしのいで乗りきれれば、その先にはよいことが待っているかもしれないが、逆に坂の上の(またさらなる)坂、という可能性もなくはない。底は底なし(底には底がない)、なんていうのもある。

秘書の数

 自分につき従う秘書が 5人もいる。官僚組織から派遣されてきて、政府職員としてその役についている。こうした環境におかれていれば、たとえかんちがいをしてしまっても無理はないなと感じる。

 思想家のマルクスは、たしかこのようなことを言っていた。個人の意識は、その社会によって規定される。これを当てはめれば、自分の秘書が 5人もいるという状況によって、自分の意識が決められてしまうような面もあるのかも。

 完全に推測にすぎないのだけど、たぶん官僚組織から派遣されてきた秘書の人たちは、さぞ優秀なのだろう。そのうえ、性格が変に曲がっているということもなく、従順でもある(不純ではないという意味で)。忠誠の精神みたいなのをもつ。官僚というのは、そもそも行政の手足であるともされる。こうした面をふまえると、そうした人たちにとりまかれているのは、至れり尽くせりの感がある。いやでも、自分が主人みたいな意識を(たとえ持ちたくなくても)持たされてしまいそうだ。

こども保険の構想

 こども保険をつくろう。自由民主党小泉進次郎議員ほか、若手の国会議員の人たちが呼びかけて提案したものだという。子どもたちのための、保育や進学にかかる費用をゆくゆくは無償になるようにしたい。いっけんすると、とくに非が見あたらない提案だ。もっとも、これは保険と名うってはいるけど、ようするに税金であることは疑いをいれない。増税するということである。

 内実が税金であるのだから、保険などとうたわないで、こども税とはっきりと言ってしまえばよい。そのほうが分かりやすくてよいのではないか。

 税金をとることばかりではなくて、今あるありようをスリム化することもいりそうだ。それなくして、たんに税金を新しくとりますというのだと、賛同が得られづらい。既得権みたいなのを温存してしまう。スリム化は、抵抗が強いから改革が難しいところではあるけど、だからこそやる意味があるともいえる。

 とりやすいところからお金をとってくるという発想だと、ちょっとそこに疑問がおきなくもない。将来へ向けて、必要なお金であるのならしかたがないのもあるのだろう。しかし、大きな政府であることの自明さというのは、見直すこともできなくはない。

 大きな政府だと、設計主義的な計画にもとづく統治となる。それが行きすぎるようだとあやうい。そこは、自由にもとづく市場のあり方とのつり合いをはかりつつ、どちらをより重んじるべきかが問われる。自由だとはいえ、市場というと、新自由主義的な(市場)原理主義をつい思いおこす。あまり印象がよくない。そうはいっても、20世紀は、(市場を無視した)計画にもとづく理性的な統治によって、皮肉にも数々の野蛮な悲惨をまねいた国家の歴史がある。

 国民には納税の義務というのがあるわけだし、税金が必要なのであれば、それをとりたてることはとくにまちがってはいない。そのうえで、みんなの合意のないままに強制してとりたててしまうのであれば、それは権力である。父権主義的であるともいえる。なので、できるだけ根本(ラディカル)のところから見てゆくこともいるのかなという気がする。立て直しというよりは、世直しになってしまうかもしれないが。

ウェブに真実の情報は転がっているのか

 報道機関がなにか事実でないことを吹聴する。しかし今の時代には、ウェブがある。そこには、報道機関が流した事実でない嘘八百の記事を見破ることができる貴重な情報がいくらでも転がっている。こうした見かたがある。この見かたは、ちょっと素朴すぎやしないかという気がする。

 たしかに、大手の(または中小の)報道機関というのは、何かよこしまな企みをもっている可能性がゼロではない。純情な受け手をたぶらかそうとするような記事をたれ流す。そうしたうらみがなくはないだろう。しかし、ではウェブはどうなのかというと、そこにある情報もまた眉につばをつけて見たほうがよい。ただ、こんなことは、何もあえて言わずとも、すでに分かりきったことであるのはたしかである。何の新しみもないから、意味もとくにないし、心に響くものでもない。

 ウェブにある情報というのは、ある面で言えば、手軽に得ることができるものである。検索などをかけたりすることで、知りたいことが気軽に手に入る。そうした手軽さがかえって危ないのかもしれない。軽信することにつながってしまう。

 嘘か真かといったように、はっきりと 2つに分けづらい。単純ではないふうである。そうではなくて、はっきりと 2つに分けられるとしてしまうと、報道機関による記事はたいてい嘘でたらめであり、それを見破る材料がウェブにある、という発想につながるのかも。じっさいに、そうした発想が功を奏することもあるだろう。ただ、逆の場合もあることも無視できそうにない。

 ウェブの情報がまちがっていて、報道機関の流す記事が正しいことも、なかにはある。ウェブのほうが、条件的に言えば、嘘をたれ流しやすい。なので、どちらがより正確か不正確かの点は、ケース・バイ・ケースであり、決めつけられないところなのだろう。

 報道機関が流す情報も、それほど悪いものではない(ものにもよるだろうけど)。ただ、振り返って見ると、昔においては、新聞がありがたいものとして奉られていたのがあったみたい。それが、戦時中の大本営発表なんかにつながってしまった要因の 1つでもあるのだろう。だから、奉ってしまうのはやりすぎである。しかし、かといって逆に軽べつしきってしまうのもまた行きすぎになりかねない。新聞は(ときどきは)報道を誤るものだろうし、そこに確実な真実があるわけではない。もともとがそういうものだとして、あまりかくあるべしという規範を当てはめないようにできればよい。

 ゲーテは、詩と真実ということを言ったそうである。何か自分が本当のことを語ろうとすると、そこには詩または詩情(ポエジー)というのが欠かせない。回転扉がくるくると回るように、その 2つは分かちがたく結びつく。そういう意味なのだそうである。そこには、本当のことと、嘘である虚構とが、相互関連性をもって関わり合うありようが見てとれる。両極性(ポラリテート)があることをあらわす。本当の話とは、本当のことではない。そのような禅問答みたいなふうでもあるだろうか。

 真実だけを追い求めんとして、それを純粋に抽出してとり出す。そのようにして語るのだと、あまりに散文的になりすぎてしまい、人間的ではなくなってしまう。逆説がはたらく。人間の尺度を超えた、自然史的な原事実というのもある。なので、何らかの潤いみたいなのが入りこむことは、あるていどはやむを得ないのだろう。この潤いというのは、ようするに不純であるということなわけだけど。

いわく言いがたいこと

 説明がしづらい。だから、他へ向かって、自分の口から説明することをこばむ。そういう面があるのかもしれない。これは、自分のなかでものごとがきちんと整理されていないことを示す。未整理のままで、そのまま放置されている。

 何もかもが整然として、うまく説明できることばかりが世の中にあるのではない。現実というのは、はっきりと(数字でいうと)整数のように割り切れるのではなく、余りみたいなのがどうしても生じる。しかしそうはいっても、それだからしかたがないとして大目に見てもらえるとはかぎらない。説明しづらいものであるからこそ、逆にそこを押してまでして、うまく整理して説明できるような形にしておく。そうした配慮も、場合によってはあったほうがのぞましい。

 人間のなかには、わけの分からない心の奥のうごめきがあるとされる。これは、文豪の夏目漱石がたしか言っていたような気がするんだけど、狂気がその人の中にすっと通りすぎる瞬間があるのだという。狂気や魔のようなものがあって、瞬間的であるにせよ、それに乗っとられてしまう。もしそれが瞬間ではなくて持続的になってしまうようなら、なおのことリスクは高まるだろう。

 こうした狂気とか魔というのは、精神分析学でいわれる欲動(リビドー)にあてはまりそうだ。この欲動というのは、たとえば恋なんかで、よくわからないけど誰かを好きになってしまうだとか、惚れこんでしまう、といったものに見うけられる。それは善悪だとか、正誤なんかの区別を離れたものだろう。善悪や正誤の区別をつける前のものであるからこそ、それだけいっそう危ういものになりえる。理非曲直がないがしろになる。

 欲動のほかに、欲求や欲望というのもあるそうなんだけど、そうしたものがこん然一体となって人を突き動かしてしまう。そのようなことができるだけない方がのぞましい。しかしかりにそうなってしまったとしても、公的な問題なのであれば、これまでをふり返りながらできるかぎり他にむけて説明してゆくように努めるのがよいのではないか。そうすることによって、徐々に整理されてゆく。私秘的に、内にとどめておくだけでは、真相が明らかになりづらい。

 いろんな大人の事情があって、他に向けて説明しづらいこともあるだろうけど、そうであれば、未整理のままでそのまま手をつけずに放置してしまうのに等しい。公的な問題は、なるべく皆でその負の面をふくめて共有することが、今後の教訓にもなるのかなという気がする。今後に生かすことで、負だったとしてもそれが正に変わりうるのではないか。ただそのためには、当事者がつまびらかにさらけだすのをいとわないとさせるだけの、前もっての受けとる側の寛容さみたいなのがないといけないのかも。あとでどうせ叱られたり裁かれたりするのなら、口を開かないほうが身のためだ、となってしまうだろうから(ちょっと子どもっぽい態度ではあるが)。

 自分がなしたことは経験なわけだけど、その経験をいざ語るとなると、純粋なものに不純なものが混ざってしまう。生のものではなくて加工されてしまわざるをえない。伝えるさいの不確実さもおきる。しかしだからといって、何も言わないでいるのであれば、供給不足になる。その不足を補おうとして、虚実が入り乱れた即興の説明がちまたにはびこるような形になる。これはともすると響きと怒りとして、(必ずしもよいこととは言い切れないにせよ)抵抗や闘争の動きにつながるところがありそうだ。

じっさいとはちがう数字

 ちょこっと会計の数字に色をつけた。これを鉛筆なめなめとして婉曲表現していたのを見かけた。額にもよるのだろうけど、厳しいことを言ってしまえば、たとえ少額であっても、数字をごかましてしまえば不正に当たるのだろう。表現をふまえると、鉛筆をなめるばかりではなく、世の中をなめてもいるのではないか、と見られてしまいそう。

問題設定のありかた

 国会での議論で、与党のやることを、野党が邪魔する。あげ足とりのようにして、足を引っぱる。そうなってしまうことで、肝心の中身のある議論が成り立たない。どうでもよいようなことばかりをやり合うようになってしまう。こうした現状があるとすると、悪いのは野党だとすることができる。悪くなってしまっていることの原因帰属を野党に当てはめられる。

 いちおう野党も有権者から選挙で選ばれているから、たんなる邪魔をしているだけだとは言い切れない。そこには有権者の一部の声が反映されているというふうにも見ることができる。そのうえで、いくら声が反映されているとはいえ、あくまでも代理にすぎないのもあるから、完ぺきなお墨付きのもとで動いているというわけでもないだろう。

 かりに与党のやろうとしていることや、今やっていることが正しいものだとすると、野党というのはたんに邪魔をしているだけに映る。権力闘争にかまけているにすぎない。ただ、そうはいっても、たんに権力闘争にかまけているだけだ、と言い切れるようなはっきりとした根拠はないのも事実だろう。いろんな思わくがあって、その中のひとつに権力闘争があると見なせる。

 問題設定(プロブレマーティク)として、どうしたら少しでも国会での議論がまともなものになるのか、というのがあげられる。これは、今行われている議論がまともとはちょっと言えそうにない、との現状認識から発しているものである。ひとつには、野党が足を引っぱったり邪魔をしなければ、もっとましなふうになるはずだ、というのがある。与党のやることに、基本としては、野党はただ黙って従っていればよろしい。よけいな口出しは不要である。

 そうした、野党を邪魔ものと見なしてしまうような問いの構造に、待ったをかけることができる。もうちょっとちがった問題設定をすることもできる。どのみち、与党がどこであれ、また野党がどこであれ、そこにはどの政党を代入することも可能だ。入れ替え可能である。したがって、立場を固定させずに、できるだけ関係的な視点に立ったほうがよい。

 たとえば、月を指さすとして、その指を批判するようでは有益ではない。少なくとも、お互いに月を指さそうとする者どうしとして、その理念みたいなものについては、共有し合っているとの認識がお互いにあったらよいのかなという気がする。そうではなくて、自分たちは月を指さしているが、あいつらはそうではない(ちがうものを指さしている)、と疑ってしまうと、そもそも話し合いの前提が成り立たない。そこは、できれば好意の原理によって見るのがよいだろう。でないと、陰謀理論がはびこることになりかねない。とはいえ、現実には好意というよりは敵意で見てしまうきらいはありそうだが。

国と宗教との融合

 第二次世界大戦への責任を問う。日本の戦争についての、他国への責任である。このさい、当時の日本人全体としてくくるのではなくて、宗教にかぎって見てみる。すると、当時の宗教者はおおむね、まったくといってよいほど、戦争に加担したことにたいする責任をとっていない。もちろんなかには例外もあるだろうけど、そうしたふうに見ることができるそうである。

 なぜそのようになってしまったのかというと、ひとつには、宗教が骨抜きにされてしまったことが挙げられるようだ。ふつう宗教といえば、なんらかの固有の神さまを崇めるものだろう。しかし戦時中にはそれが国体の思想として、天皇を崇めることにとって代わられた。天皇は現人神として、国においては、神さまと同等の扱いとなっていたせいである。

 日本の伝統宗教には、現世利益を重んじるような、現世主義が見られるのだという。この傾向もまたあやうい。現状追随主義となったり、現実に順応することをもってしてよしとしたりしてしまう。それによって、全体化や管理化をうながしかねない。集団化してしまうことで、個がいちじるしく抑圧される。支配的な権力が幅を利かせ、他律化してしまうのだ。

 国家と宗教とが癒着すると、よからぬ悲劇や失敗をもたらしてしまう。その点についてよく自覚しておくことがいるのかもしれない。できるだけそれらが癒着しないように気を配っておくことがいる。昔のように祭政一致になるのではなく、政教分離するように努める。そこがなし崩しになりつつあるような気がするんだけど、もしそうだとすると危ない傾向だといえる。健全な恐れみたいなものを持つことも多少はいるのではないか。距離がゼロになるのではなく、最低限の距離を保つことがいる。

 今からかつてをふり返って、一方的にその非をなじったり、罪をとがめることを言っても、公平とは言えそうにない。あとからふり返ることではじめて意味づけが定まるところがあるから、まさに渦中のただ中におかれている人は、ものごとのありようがうまく見えづらい部分がある。だから、個々の人を断罪してもあまり意味がないかもしれないが、全体の誤った傾向をふり返ることはいるだろう。

 宗教を一くくりにするのはまちがいの元だし、そこばかりを責めるのだといたずらな悪玉化につながりかねない。そうしたきらいはあるが、戦時中に国家と癒着して(悪い意味で)溶け合ってしまったことにたいする無反省ぶりが見受けられるとすると、それは興味深いことだという気がする。これは宗教のみならず、日本人一般のありかたを象徴しているのかもしれない。無反省だというのは、あってしかるべき反省や分析が排除されていることを示す。その隠ぺいを明るみに出すことがいるのかもしれない。