真実よりも優先されるもの

 真実よりも、法や人権が優先されてしまう。そうした意見があって、なるほどなあという気がした。少なくとも一理あることは疑いをいれない。法だとか、(人権とはちょっとちがうけど)名誉だとかが優先されてしまい、真実がないがしろにされてしまう。

 真実よりも法や人権が優先されてしまうがゆえに、法や人権はけしからん。このように見てしまうのもまたどうなのかなというふうに感じる。これらはみな、精神的価値の範ちゅうの中に入るのかなという気がする。真や善や美や聖などだ。どれもがみな大事なのであり、どれかが犠牲になるという必要がないのではないか。

 真実を知りたいという渇望はみんなが多かれ少なかれ持っていそうだ。もし真実を知ることができるのであれば、それに越したことはない。しかしそれがかなわないから、ほかのものが代償として持ち出される。これはごまかしといえばそうもいえるし、そこを指摘することもいるだろう。ただそのさいに、たとえば法や人権を悪玉化するのだと、ちょっとそれにも疑問が生じる。

 法や人権が優先されているから真実がないがしろになるというより、むしろ法や人権が軽んじられている面もある。法や人権の危機なのである。そうしたふうにも見ることができるのではないか。そのさい、法や人権が弱者のためにあるのがふさわしいが、逆になってしまっている。この逆にしたとらえ方によって、誤解が生じるのだという気がする。法がお上(為政者)のためにあるとするのは、東洋的な発想によっているとされる。

 人権について言えば、いまはそれが重んじられている現状とはちょっと言えそうにない。それに、人権を語るのであれば、立憲主義と合わせて語るべきだという気がする。立憲主義あっての人権なのだからだ。権力者が人権を盾にして自分の身を守るのは、そもそも立憲主義にそぐわない。そのようなことに用いるためにあるものではないだろう。趣旨をはきちがえてしまっている。

 人権というのは、社会契約説の思想によって生み出されたものだとされる。これらは虚構であるわけだから、つくりごとといえばそうとも言えそうだ。そのうえで、つくりごとだから間違っていて、正しくないんだ、ということもできる。しかしそんなことを言ったら、社会契約説の前にあった、王権神授説だって、嘘であるともいえるだろう。神話にすぎない。そして今は、この王権神授説のようなあり方になってしまっているところがある。

 完全に王権神授説みたいなふうになっているというのではなくて、一部にそうしたものを熱烈に希求する向きがある。それにくわえて、社会契約説において、その契約が結ばれる前の、自然状態(戦争状態)におちいっているところもありそうだ。社会状態が崩れてきつつある。(立憲)契約を無効なものだとする一部からの主張も根強い。

 哲学者のレオ・シュトラウスは、専制的な自然国家があるのだという。これは、虚栄心によって立つ。理性なきありかただ。国民のみながみな、外敵または内部の敵におびえて、恐怖でお互いにすくみあがっているありようだ。こうしたものを乗りこえることがいるという。

 真実がないがしろになってしまうのは、真実の追求をおろそかにしてしまっているのがあるからだろう。それがおろそかになってしまうのは、反対意見を封じてしまっていることからくるのではないか。できるだけ反対意見も受け入れるようにして、結果を先に決めてしまわぬようにする。話し合いの過程を重んじるようにすればよい。このように言うのは易しいことだけど、じっさいにやるとなると難しいものである。そのうえで、なるべく自他ともに変化することを受け入れるしかない。でないと、ぶつかり合いに終止符が打たれることはなされづらくなる。

信頼の分断

 信頼にかんしてのムラがおきている。これは、政権与党である自由民主党についてのことである。自民党にたいして信頼している人は少なからずいて、支持率もそれなりに高い。自民党は、そうした信頼してくれている人にたいしておもに顔を向けている。そこのあいだの信頼の構築(ラポール)はうまく行っているのだろう。

 いっぽうで、信頼についてのムラがあるわけで、それは分断があることを示す。自民党にたいして根強い不信感をもっている人もいるわけだ。そういう人たちにたいするきちんとした説明が自民党の側からなされているとは言えない。放っておかれてしまっているような気がする。

 そんなこと言っても、そもそもが、いちいちきちんと説明や釈明をする必要はまったくない。何もまちがったことはしていなく、非もないのだから。だいたい、きちんと説明や釈明をしたところで、それをまともに受けとってくれないかもしれないではないか。だから、まともに説明や釈明をする意欲や動機(モチベーション)がわかないとしてもそれは分からないでもないことなのだ。そうした声もあるかもしれない。

 そのように、ある種開き直ってしまうような、あきらめてしまうようなことだと、ちがう者との対話がおきづらい。対話といったって、そんなに生やさしいものではなく、そこにはどろどろとした情動がどうしてもからむ。めんどうなのはたしかにそうなのだけど、だからといってそれをいつもいつも避けてばかりいたら、通訳(共約)可能なものどうしで分かり合うことにしかならない。ようするに、独り言を言っているに等しくなってしまう。

 もし自民党が、通訳可能なものにではなく、通訳不可能なものにも向き合うように少しでも気を向けてくれたらさいわいだ。そこへ気を向ける労力のゆとりがもしあれば、そうしてほしい。そうでないと、たとえばある不祥事がおきたとして、それを都合のよいようにもみ消してしまうようになりかねない。それは、社会関係として見ると、ふさわしい対処の仕方であるとはいえそうにない面がある。

 自分たちのもっている価値を下げたくないばかりに、それを守ろうとして保身に走ってしまう。こうなってしまうと、現実の問題をまともに解決するためには有効でなくなるおそれがある。問題となることが再びおきないように防止するためにも、あるていど自分たちの価値が下がるのをいとわないような姿勢をとることがいる。持たざる者へ多少はゆずりわたすことがいる。そうしないと、不信をもっている人からの信頼を得ることはできづらい。

 信頼についての分断がおきてしまっているのは、そもそもが、不信感をもつ方こそがむしろまちがっているのだ、とする見なし方からきている面もありそうだ。たしかに、人の心理としては、何か悪いことが少しでもあると、それをすぐに一般化(部分の性急な一般化)してしまうきらいがある。ただそれはあくまでも一般的な心理の傾向としてあるものでもある。なので、けっきょくはみなに当てはまってしまう傾向なのだから、正しいとかまちがいとかはあまり言えなくなる。程度の問題にすぎない。

 信頼をもってくれて支持してくれる人にたいしてはよいだろうけど、そうでない人には、上意下達のやり方は通じづらい。この上意下達のやり方は、自己宣伝(プロパガンダ)のようなものである。その宣伝を聞き入れてくれる人だけでなく、こばむ人もいる。そのこばむ人にもそれなりの理由というものがあるかもしれないわけだから、そこを受け入れてくれないと、議論にならない。反対意見を封じてしまいかねない。これは行きすぎるようだと、教条主義と言ってもさしつかえないだろう。そうではなくて、できるだけ自己修正的なあり方のほうがよい。やや頼りなくなってしまう面はあるだろうが。

原発事業の難航

 原子力発電の事業で世界の頂点をめざす。日本の製造業の会社である東芝は、そのような意気込みをいだいていたという。しかし結果として、アメリカの原子力の子会社が失敗した影響もあり、1兆円という前例を見ないような巨額の赤字を出すことになった。

 後出しじゃんけんのようにはなってしまうが、こうしたことが言えるだろう。東芝がなぜこのような巨額の損失を出してしまったのかというと、原発産業が計算しづらいリスクをもっていたことによる。2011年におきた東北大震災で福島の原発が事故をおこした。そのことで原発事業の風向きが大きく変わってしまった。

 経済というのは主として交換価値原則で動く。これは等価原理であり、市場原理である。比率と効率を重んじる計算的なあり方だ。何ごとも量によってとらえてゆく。そうしたあり方のなかでは、質的なリスクなんかは考慮に入れられない。質的なリスクは計算しづらいからである。それは、呪われた部分にあたる。

 質的なリスクを過小に評価してしまう。そのうえで、自分たちの利潤を極大にしようとして動いてゆく。これはあらためて見ると、蛮勇と言ってもさしつかえないかもしれない。少しでも手ごわい他の競合企業を出し抜いて勝ち上がってゆくためには、立ち止まってあれこれ案じているのではまずい。わき目をふらずに、つねに動態的に走り続けてゆかないとならない。加速度がものをいう。立ち止まるのは、極端には経済的な死を意味する。

 もともとが原発事業というのは、そのリスクを含めて見ると、非効率なものなのだろう。しかし、その非効率さは、以前は安全神話によっておおい隠されていた。そのおおいが取り払われてしまったことで、経済的に割にあわないことが露呈してしまう。

 原発事業というのは、もともとがそんなにきれいなしろものではないのもありそうだ。原発が立地する近くの人たちにリスクを押しつけてしまう。核廃棄物の処理をどうするのかもひと筋縄ではゆかない。ひとたび事故がおきれば、その被害ははかりしれないことになる。こうした負の要素に目をつむることは、現実を歪めて見てしまうことになりかねない。資本家という強者が、その資本力と科学技術力にものを言わせて、自然または(一般の)人間を道具化して支配する面があることは否定できないだろう。

始点と終点

 こじれている問題がある。問題がこみ入ってしまい、輻輳(ふくそう)している。そうしたものをあらためて見直すさいには、まず出発点となるものをふまえるのがよい。そうしたことが言えそうだ。どこが、または何が出発点となっているのかをまず明らかにして、それを始めにすえることで、理解がしやすくなる。音楽でいうと、はじめに鳴らす主音(ドの音)にあたるものだろうか。たしかアリストテレスは、美学において、始めあり、半ばあり、終わりあり、として区切っていたそうである。そういうふうにするさいに、何を出発点にすえるのかは、一概には言えないわけだけど。

筋書きにそって

 筋書き(ストーリー)をもってして、それに当てはめて見る。それは一つの物語でもある。物語による筋書きというのがあって、その筋書きにふさわしいものはとり入れられ、ふさわしくないものはとり除かれる。

 物語には三つの要素というのがあって、一つはその筋書きにおいて必ずなくてはならぬものである。反対に、筋書きにおいて、あってはならないものというのもある。また、あってもなくてもどちらでもよいものもある。

 ある存在者の自我において、それをおびやかすようなものから自我を守るために、防衛の機制(メカニズム)がはたらく。この防衛の機制では、秩序を保つために、自我をなるべく閉じようとする。内に抱いている価値の体系が壊れるのを防ぐ。こうしたときに、なにか固有の物語と筋書きがよすがとして求められる。これは大きな(大文字の)物語になるわけだろう。固定化して、全体化または同一化するようなものである。

 どのように現状をとらえるのかというのは人それぞれなところがある。とりわけ今の時代は、どのように現状を見るのかの確固としたものさしが得られづらい。第二次世界大戦のあとであれば、冷戦のなかで、自由主義(資本主義)か社会主義かといったわりと分かりやすいとらえかたがあったようだ。今はそうしたものがないわけだけど、だからといって何もかもを相対的に見ようとは必ずしもなっていない。ある単一の世界像なり世界観なりが需要され、供給されているところがある。供給者というのは、政治政党もふくむ。

 単一なある世界像なり世界観においては、そのなかにおける快適さが追求される。できるかぎり快適さをもたらすものがよしとされる。その反対に、不快であるものはよくないものとされ、負価値をもつ。快適さを邪魔するものであるために、うとんじられて、とり除かれることになる。そうはいっても、じっさいにはなかなかとり除くことができないものもありえる。それぞれに、自己保存力(力への意志)を持っているからだ。となると、いまいましいものとして、悪く評価づけられる。不快さにくわえて欲求不満をもたらす対象と見なされざるをえない。それは否定的なものとして実体化され、物象化される。物象化は、生きたものを物に変える死の世界である。

 筋書きの話に戻ると、このようなあり方もあげられる。まず現実があって、それから物語や筋書きがつくられるのではなく、その逆のあり方である。あらかじめ何らかの物語や筋書きがあって、それにふさわしいように現実が読みとられるわけだ。現実を見るときに、何らかの前もった筋書きによる負荷がかかることになる。観察の理論負荷性といわれるものがはたらく。このさい、物語や筋書きが一方にあり、もう一方(他方)に現実があるわけだけど、それ以外に第三の要素もある。

 第三の要素は、しばしば捨て置かれていて、陽の目を見づらい。この捨て置かれたものは、ある物語や筋書きが産出することになった、(潜在的な)新しい物語や筋書きである。この新しいものによって、古いものが乗りこえられる可能性がおきる。それは正統ではなくしばしば異端だろう。または境界的で周辺的な性格をもつ。

 こうした第三の要素をふまえてみると、大きな(大文字の)物語の単一性というのは成り立ちづらい。かりにそうしたふうであったとしても、その裏では、潜在的にもう一つの物語や筋書きが生まれ出ることになる。というのも、ある物語による筋書きでは、必ず何かふさわしくないとされるものがとり除かれているからである。相互性や複数性がおきざるをえない。

 そうした相互性や複数性は、あまり歓迎されるものではない。その理由としては、大きな(大文字の)物語から、ずれようとするように動くからだろう。大きな(大文字の)物語というのは、きちんとまっすぐに立つ。しかし、そこに相互性や複数性がおきると、ずれてしまうようになるため、斜めに傾く。まっすぐに立っていたものが、ぐらつくわけである。ぐらつくというのは、一見するとなにか否定的なふうにも見なせるが、一方で活性化することでもある。ぐらつかないでまっすぐに立っているのは、安定しているが、活性化はしづらい。

今でしょ

 今でしょ、は、予備校講師の林修氏の名フレーズである。このフレーズは、いつやるか、今でしょ、となっている。フレーズを 2つの要素として見ると、いつやるかが問いかけになっていて、今でしょが答えになっているのに気づいた。問答法(対話法)の形式になっている。すでに分かりきったことなのかもしれないが。

風のなりゆき

 神風が吹いた。そうした自己認識による、自分をとりまく状況にたいする肯定的な解釈がある。しかし、この認識には危ういところがあるという気がする。うまく行っていて、のぼり調子に見えているときというのは、そののぼってゆく角度が鋭角であればあるほど、あとで逆に落ちてしまうときの角度も急であることが予想できる。

 そうしたわけで、自分に神風が吹いているときは、あとで剣呑なことになるのを示す負のしるしだと受けとることもできるのではないか。神風というのは、自分の背中を押してくれる追い風であるとすると、いっけん有利にはたらきそうではあるが、しかしそれは必ずしもあとで風の向きが変わらないことを保証するものではない。

 神風の最大瞬間風速がいかに強かろうとも、どこかで旋回点がくるとして、身構えておいて、心づもりの上であってもいちおうは備えておいたほうが、すべてを失うまでにはいたらなくてすむのかも。

証拠の自然さ

 証拠の自然さとははたして何だろうかという気がする。基本として、ほとんどの証拠は、でっち上げられている可能性を持っているのではないか。というのも、証拠というのは、たまたまそれが残されていたというだけであって、あらかじめ事件がおきることを前もって予測して存在しているものではない。超能力による予知でもできないかぎりは、将来のことを確実に見通すことはできないものだろう。

 そうしてみると、人為的にでっち上げられているおそれがあるからといって、その証拠の信ぴょう性が損なわれることにはつながらないとも見ることができる。むしろ逆に、人為的にでっち上げられる可能性があるからこそ、その証拠は自然であるということもできる。細部まできちんとつくりこまれていて、まったく疑う余地のないような、非の打ちどころがないようであれば、そのほうが不自然なふうにも受けとれる。

 証拠をどういうふうに解釈するのかというのは、そこに見る人の先入見が入りこむから、そう簡単ではないのかもしれない。それをとりまく一連の流れや文脈との整合性もかかわる。証拠というのは一つの痕跡であるという気がするんだけど、その痕跡をどう見なすのかはやっかいなことがらである。疑おうと思えばどこまでも疑うことができるし、また逆に信じようと思えばどこまでも信じられてしまう。

忖度と和

 忖度は、外国語に訳しづらい。なので外国の記者の人は、自国に日本のニュースを伝えるのに手こずっているらしい。そこで思ったのだけど、忖度は和(wa)としてしまえばよいのではないか。和の一種である。ただこれでは、たんに日本語を別の日本語に移し替えただけではあるから、あまり意味はないかもしれないけど。ようするに和の一種なのだということで、それが組織の人員に拘束(束縛)としてはたらくと悪く作用することもあるというふうに言える。

問題の大小のちがい(図なのか、地なのか)

 政策にたいする議論がまるでない。そうではなくて、政策がどうかについてをお互いに勝負するべきではないのか。それをないがしろにして、瑣末なことがらに目を向けて熱心になるようでは本末転倒だ。政策で議論して相手に勝てないから、あげ足とりのように、とるに足りないところへ目を向けてしまうようになるのである。じつにくだらない。

 そうした意見は、たしかに的を得たものであるという気がする。そのうえで、そこに疑問をもつこともできなくはない。政策が話の中心になるべきだというのはたしかだとしても、それが全てであるとは言い切れない面もある。あんがい、一見するととるに足りない細かい問題にこそ、本質につながる重要な問題があらわになっていることもありえる。

 森の全体を見ていても、どこに核となる負の問題があるのかはとらえづらい。なので、森のなかの一本の木なんかに着目することで、そこをしつように追求するというのは一つのやり方である。このような方法をとらないで、ただばく然と森の全体を眺めてそれがよいだとか悪いだとか言うだけでは、一向にらちがあかない。森の全体はたとえ充実しているように見えても、その中のある一本の木がなにか変に虚ろな響きをたてているのなら、そこに何か本質的な問題が隠されていることが少なくない。

 政策についての話し合いというのも、じっさいにはけっこう難しいところがありそうだ。というのも、かりに今おこなわれている政策が間違っているとして、その非を相手が指摘したところで、当事者がはいそうですかと素直に認めるとは考えづらい。間違いを間違いと認めるのは、当事者の沽券や名誉に関わるせいだろう。そういうのを抜きにして、たんに政策の是非だけを純粋に話し合うのは現実には難しいのではないか。

 かりに今おこなわている政策が正しいものであるとしても、だからといってそれ以外の細かいところの問題を大目に見ることにはつながらないのもある。それとこれとはまた別の問題だと見ることができる。ただそうはいっても、別な問題であるからといって、政策であるとかまたは間近の大きな事態をないがしろにしておいて、とるに足りない細かいことにかまけっぱなしではまずい。

 けっして小さいとは言いがたいような腐敗がある。それを大目に見て水に流すとすれば、その条件としては、よほど政策なんかがうまく行っているときに限られるのではないかという気もする。もしそこまで(万人が認めるくらいに)政策や行政の運営がうまく行っているとは言いがたいのであれば、腐敗を大目に見て水に流すまでにはいたらない。かりに腐敗が小さなものであったとしても、ぼやのうちにきちんと正しておいたほうがよい。でないと、のちのちすごく大きな火があがってしまいそうだ。