テロの否定

 テロを防ぐ。これは、2020年に予定されている東京五輪のための下地を整える面もあるという。そうしたことで、共謀罪の法案を政府は閣議決定した。これは、テロ等準備罪ともいわれている。

 この法案については、政治政党である日本維新の会は賛成するのだろうか。反対したほうが、名前とのつじつまが合いそう。というのも、明治維新というのは、倒幕のために特定の人物が共謀した結果によっておきたことだという面があるからである。共謀罪の法案に賛成するということは、当時の幕府にたいするテロでもある維新を否定することになりはしないかな。

 靖国神社への政治家の参拝の問題があるけど、これについても、参拝に賛成であるのなら、共謀罪の法案に反対したほうがつじつまが合いそう。靖国には維新の志士がまつられていると言われるからである。法案の成立に賛成するのであれば、靖国への政治家の参拝は、自粛するべきだとするのがふさわしそうだ。とはいえ、それはそれ、これはこれ、ということなのかもしれないけど。

不確実さの払しょくのための監視

 監視役を送りこむ。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、自分が指名した閣僚が、言うことをきちんと聞いているのかどうかをチェックする人員を送りこんでいる。そのような報道がされていた。

 閣僚が必ずしも自分の言うことを聞くとはかぎらない。その保証がないのだから、やっていることをチェックするのは、発想としてはそこまでおかしくはないとも受けとれる。しかし、それと同時に、閣僚にたいして不信感を持っていることがあらわれてしまってもいる。心から信じているわけではない。

 監視役がそばにいるなかで仕事をするのだと、閣僚としてはやりにくい環境であると言わざるをえない。やりやすい環境であるとは言えないだろう。ほんらいであれば、じっさいに仕事をする現場により近い人に、できるだけ自由にものごとを判断する裁量が与えられていたほうがよいのではないか。そのほうが、柔軟な対応ができるし、効率もよい。現場に近い人のほうが、情報量が多いのもある。

 自分のまわりにスパイがまぎれ込んでいるとか、敵がひそんでいるだとか、裏切り者がいると思ったとしても、それはそれでしかたがない。それは個人の気持ちのもち方だし、その可能性がゼロではないのもある。そうした疑りの気持ちを、じっさいに反映させてしまうと、それが吉と出るかは定かではない。疑いが晴れるとはかぎらず、いっそう増すおそれもある。また、国益や、国民の効用とのつながりもはっきりとはしがたい。

 上司が部下のやることを監視するのは、そこまでおかしいことではない。そういう面もあるのだろうけど、なんとなく一望監視装置(パノプティコン)を連想させるところがなくもないと感じた。そうした規律の権力の作用をはたらかせている。こうしたあり方だと、自律ではなく他律になってしまうのはいなめない。

 社会的矛盾の点に立てば、自分に非協力な者を一切いなくさせるのは不可能だ。あるていど不透明になるのはしかたがない。もっとも、そうしたありかたは、国の長であるトランプ大統領にとっては、はなはだのぞましくないものかもしれないが。それとなく監視して、少し圧をかけるくらいであるのなら、そこまでやり過ぎだというわけではないのもありそうだし、一概に批判するのは当たらないのもあるのかも。

手続きによるバランス

 安全と安心はちがう。安全ではあっても、安心ではない。そういうことで、東京都の小池百合子都知事と東京都議会の議員の人たちは、元都知事の石原慎太郎氏を問いただした。議会において、百条委員会を開いたのだけど、それではということで気さくに心を開く石原氏ではなかった。それはあたり前の話でもあり、自分が標的にされているのだから、貝のように口をつぐんでしまうのも、ある面では無理もない。

 この百条委員会については、無意味な内容だったとの批判も一部ではあがっている。そうはいっても、やってみなければ分からないものでもあるだろう。やってみた結果、そもそもやる必要があまりなかったとのことが判明した、と見なせる。

 移転が計画されていて、いま延期されている豊洲新市場については、そもそも法律と条例の面では安全性をクリアしているという。それ以上の安全性を求めているのが、もめている原因だ。地中深くから水をとり出し、その成分を検査する。これはそもそも使う水ではないわけだし、過剰な対応だとの見かたもとられている。

 小池都知事は、豊洲新市場の安全性に疑問をもったわけだけど、その出発点はよかったのかもしれない。しかし、疑いすぎてしまったがために、趣旨が変わってきてしまった。そんなことが言えるのだろうか。

 安全ではあるけど、安心ではない。こうしたことは、ゼロリスクの発想から来ているものなのかな。たしかに、公害なんかの被害につながるようだと問題である。それとは別に、手続き的な正義をふまえるのも手だったのではないか。手続きとして、民主的な決め方がなされているのなら、石原氏の豪腕でものごとを進めたとは言いがたい。なので、石原氏を責めても、決めの一手に欠く。

 枝葉末節として、瑣末な部分の不正や害も、それはそれで見すごせない。しかし、それはあくまでも一部にすぎないとすれば、大きく広げすぎて全体視してしまうとやっかいだ。一斑を見て全豹を卜(ぼく)すみたいな。そうではなくて、幹となるような中心にあるものが何かをふまえたほうが、バランスはとりやすい。はたから見ているだけにすぎないが、そのように言えそうだ。

悪い人のよい発言を、平等にとり扱うべきか

 すごく悪いことをした人が、すごくよいことを言っている。そのよいことを言っている部分を、肯定的に評価して受け入れてもよい。なにも全否定することはない、というわけだ。こうした受けとり方は、先入見みたいなのをまったく取り外してしまうようなものなのかも。しかし、どうやってみたところで、そうした先入見による解釈というのは関わってきてしまうものなのではないか。

 ナチスを率いたアドルフ・ヒトラーの『わが闘争』という本があるようなんだけど、これについてみても、まず、ヒトラーという名前の意味を消すことはむずかしい。この固有名が持っている歴史的な意味を、無意味にすることはできない。無意味にしようとしても、それはかえって不遜になってしまう。そうしたおそれがありそうだ。

 ヒトラーという固有名は、メタ言語としてはたらく。なので、『わが闘争』という本は、ヒトラー(が記したもの)として見よ、という作用によって受けとらざるをえない。そこには、歴史的な意味あいが強く付着している。その付着している意味あいは、『わが闘争』の本文からすると、余計なものといえばいえなくもない。しかし、その余計なものにこそむしろ重みがある。

 すごく悪いことをした人でも、すごくよいことも言っている。そのよいことを言っているのを取り上げるのは、平等のあらわれかもしれない。しかし、平等であることと、歴史的になしたことを軽んじることとは、またちがってくる。歴史的になしたことをふまえつつ、平等にも扱うというのなら、広く世に目を向けることが可能である。一つのことにこだわる必要がない。

 よいことを言っていても、すごく悪いことをしてしまった。とすると、そのどちらを重んじるべきだろうか。これは一概には言えないかもしれない。かりに、すごく悪いことをなしたという点を重んじてみる。すると、すごく悪いことをなしたというただその一点だけで、すべてが台無しになった、とできる。たとえよいことを言っていても、つつがなく生きた大多数の無名の人よりも、むしろ評価がずっと低い。何もよいことは言っていず、言葉もとくに残さなかったが、可もなく不可もなくとして生きた人のほうが、評価はずっと高い。

 平等にとり扱うのと、歴史的な意味あいを消してしまうのとは、またちょっとちがうことなのではないかという気がする。そこを取りちがえてしまうと、かえって平等にならなくなってしまいそうだ。

 いや、そんなことを言ったって、歴史的な意味あいなんか軽んじてもよいではないか、とも言える。つくられた歴史かもしれないし、でっち上げられているかもしれない。誇張されているのもありえる。疑えばきりがない。

 たしかに、歴史的な意味あいを疑うことはできるけど、それを疑ったところであまり意味があるとは思えない。ただ、なかには疑うことがいるものもあるかもしれないけども。それは、まだ評価がしっかりと世間で固まっていないものに限られるだろう。

 疑うさいには、陰謀理論なんかを持ち出すこともできる。そうすると非合理におちいるおそれがある。すべてを疑い出したら切りがないわけで、それは万人が争いあう自然状態(戦争状態)に等しい。どこかで切りをつけて、あるていど評価が確立しているものについては、それを信用して、合理的に受けとることもいる。そうしないと不毛である。

 すべてを平等にとり扱い、歴史的な意味あいを消し去ってしまうと、それは混沌になりそうだ。無区別であるし、無差別であり、無批評である。これはあり方としてはちょっとおかしいし、現実的でない。無法者(アウトロー)がいるとして、その人がのさばってしまうのを見すごすようなものだろうか。そこは、合法と違法みたいなもので、歯止めをかけたほうがよい。それが、歴史的な意味あいになるのではないか。こうしたことをふまえた上での区別は、そこまで差別的にはならないと思う。

 かりによい部分があったとしても、よい部分があるけど駄目なんだ、とする。こうではなくて、逆にしてしまうと危うい。駄目だ(と広く言われている)けど実はよい部分もあるのだ、としてしまうのだとちょっとまずい。こうすると、駄目だのところを隠ぺいしてしまうことにつながる。最後の結論は、駄目なんだというので終わらせたほうがよい。歴史上の過去の人についてはそうしておく。このさい、結論としての駄目なんだというのが、ゆずれない原則(原理)になる。これは、かりによい部分があったとしてもの話ではあるのだけど。

 よいけど駄目、ではなく、駄目だけどよい、として何がいけないのか。どちらをとるとしても、それはそれぞれの自由だろう。押しつけるように人のやることを決めつけるな。そうしたふうに言うこともできる。人がどういうとらえ方をしようとも、それはその人の自由ではある。そのうえで、結論をどうするかを先に決めて、そこから逆算するのがよいのではないか。駄目なものなら、まず駄目という結論をしっかりと固定する。イエスなのかノーなのかということだ。そうしたふうにはっきりとさせておかないと、結論がうやむやになりかねない。煮え切らなくなる。もっとも、はっきりとさせたところで、結論となる意見が割れるのもあるだろうけど。

 ヒトラーのように、あるていど歴史的な負の意味が定まった過去の人であれば、決めつけてもとくに問題はないかもしれない。負荷をかけてしまう。しかし、いま現に生きている人もいるから、そういう人にたいしての配慮がおそろかだったと省みている。無法者がのさばってしまうとはいえ、これをけしからんとする発想は、不条理な暴力や差別につながりかねない。なので、先入見をとり外して、虚心に見ることもいる。いま現に生きている人については、負荷をかけないで見るほうがよいかもしれない。

宗教と無宗教のはざ間

 日本人には宗教がない。無神論的だ。なのに道徳的なのだから立派だ。こうした意見を見かけた。しかしはたして本当にそうなのかな。戦前や戦中には、当時の天皇を現人神として神格化したのではなかったか。国家神道によって、神風が吹くとの見こみで現実を無視して突き進んでしまった。

 日本人に宗教があるかないかはとりあえず置いておくとしても、排外思想という傾向がある。この排外主義というのは、問題がないとはいえない。いまでもそうした負の傾向を、残念ながら持ってしまっているきらいがある。何かある特定のものを排斥することで、それが外に叩き出される。ふつうはけがれとされるが、それにくわえてときに聖別もされる。そうすると、聖なる者である神がなりたつ。

 民俗学者柳田国男氏は、かつて日本には氏神信仰があったとしているみたい。これはちょっと興味深いなと感じた。儒教の思想にも通ずるところがありそうだ。自分が死んだら、氏神として神さまになれる。なので、子や孫を大切にした。儒教の孝の精神のようなものだろう。

 かつては、日本にはこうした心のより所があった。しかし今では失われてしまったと言ってもさしつかえない。だからといって、それをそのまま今に持ってきて、復活させようとするのは難しい。そこまで簡単な話ではないだろう。断絶となる不回帰点(不連続点)があるからだ。たとえば、自動車がなかった時代にまた戻れるかといえば、それは難しい。

 氏神信仰のような、昔の信仰が失われたことで、老いへの格下げの評価がおきているのもいなめない。自分が将来必ず老いるのにもかかわらず、非生産的なものとして老いを否定するのは、天に向かってつばを吐きかけることになりはしないかと危ぶむ。社会保障の負担も無視はできない。ただ、そうした金銭の面に引っぱられるのだと、近代のテーゼのようなものに拍車がかかってしまう。

 非生産的なものをやっかいなものとしてとり除くと、かえって自滅につながる面もなくはない。しかし、自滅とはいっても、社会保障の負担が大きくなるのもまた危ういではないか、とも言える。それもまた確かなことである。しかし、あらためて、いったい何のための生産性なのだろうかと、いま一度見なおしてみるのも手だ。誰のための生産性や効率性なのか。何のために科学技術を発展させてきたのだろうか。これまでに成し遂げられた社会の進歩と発展は、誰の幸せにつながっているのか。こうした点が、ふり返ることができるところかもしれない。

不名誉への感度

 民間人は国会に呼ぶべきではない。できるだけ慎重であるべきだ。しかし、総理大臣の名誉を傷つけられたのなら、話は別である。その不名誉は、放ってはおけない。しっかりと払しょくすることがいる。このような理由によって、自由民主党竹下亘議員は、民間人である森◯学園の籠池氏を国家に呼ぶことに応じる姿勢を見せた。

 総理が侮辱を受けたことが、大きなきっかけとなっている。いままで民間人だとして、招致に難色を示していたのは何だったのか。一貫性という点ではやや疑問がある。くわえて、一連の流れが、必ずしも民意にそった対応ではないとの非難も一部から投げかけられている。世論調査ではすでに、たしか 7割くらいの国民が、この問題に関心をもち、真相を明らかにしたほうがよいとしていた。

 総理の名誉を守るのもたしかに大事ではあるだろう。そうであるのなら、広く名誉というものが保たれるような社会であったらよいなと感じる。日本では、裁判で名誉の毀損について争ったさいに、その賠償金があまりにも低いと言われている。これを改善してはどうか。そうすれば、でたらめな風聞を週刊誌なんかに流されて、売り抜けられてしまうことも減るだろう。総理の名誉に敏感なのであれば、それ以外の個人の名誉に鈍感であってほしくはない。そこに広く目を向けてもらい、制度が改まればさいわいだ。

動機と結果のつり合い

 首相夫人は公人ではない。私人である。自由民主党は、与党の政権として、このような閣議決定を下した。この閣議決定については、賛否が分かれている。どちらかというと、否なのかな、という気がする。やはり、純粋な私人であるとはいいがたい。ただこれは、人によって見かたが分かれるところなのだろう。

 首相夫人である安倍昭恵氏は、大阪の森◯学園問題において、その当事者の一人である。なので、いちど記者会見を開くなどして、申し開きなり説明なりをしてもらいたい。こうした意見があり、自分もまたそのように感じる。ただ、夫人を公衆の面前であたかもさらし者にするようなふうになるのであれば、それはまたそれで趣旨がちがってきてしまう面もあるかもしれない。

 はたして、夫人に悪意はあったのかどうかというと、それはなかったという気がする。悪気がなかったことはおそらくまちがいがない。たんに日本を活気づけようだとか、よくしてゆきたいという気持ちから、さまざまな活動にとり組んでいたのだろう。

 そうした悪気のなさはよい。そのうえで、これは一般論になってしまうのだけど、人間が何かを行うさいに、それがまったくの私利私欲のかけらもないものであることはまずありえない。たとえ慈善行為であっても、それは自分が気持ちよくなるためだろう、と言われれば、それを完ぺきに否定することはできなくなる。

 その主張への反論もできる。なにも一般論がすべてではない。悪気がなく、かつ善意のみからくる行動や発言もなかにはある、として何がいけないのか。たんなる邪推のしすぎなだけだろう。他人のやることをとやかく疑うのは、そういう見かたをするお前の心が汚いだけだ。そうした批判を受けるかもしれない。その批判は、正直いって耳が痛いこともたしかだ。

 話を戻して、なぜ夫人は釈明に出てくることがいらないと言えるのかというと、それは、悪気がなかったとしているためだろう。かつ、法に触れるほどの問題でもない。だから、たしかにきちんとした釈明をしなくても、それはそれでよいとも言える。そのうえで、そこには大義を重んじる心性がはたらいているという気がする。

 すなわち、大義が正しいのだから、結果がたとえどうであれ、それは許されるのだ。そうした見かたである。大義のほうに重きがあるのであり、それさえ正しいのであるのなら、報道機関がどうそれを受けとったとしても、報道のほうがむしろまちがっているのである。たんなる目先のお金もうけにすぎない。獲物に群がるハイエナのような。

 じっさいに活動する当事者である夫人が、動機主義でものごとにとり組む。そしてそれを評価する者が、動機論的な忖度をはたらかせる。こうしたところがあるかなあという気がしている。こうなると、結果が軽んじられてしまう。くわえて、結果のみならず、帰結もまた軽んじられる。このように結果や帰結が軽んじられてしまうのはいささかまずい。なるべくそこを尊重してもらえればさいわいだ。

基地としての学園

 大阪の森◯学園の問題では、教育においての保守思想がとり上げられた。そして、学園を支持して応援に駆けつけた大人たちも、右寄りの論客の人たちで占められていたようだ。保守や右寄りだからといって、それだけをもってして非難されることはないかもしれない。しかし、その傾向が法(教育基本法)の決まりを超えてしまってはまずい。

 森◯学園では、なんで思想の偏りの教育スタイルがとられたのだろうか。それは一つには、保守や右寄りの思想のための拠点にしようとしたのではないかという気がする。基地(ベースメント)にしようとした。なぜそうしたものが必要だったのかといえば、自分たちの心のより所たるべき安全基地(セキュア・ベース)をつくりたかったのだろう。駆けつけた大人たちはそのプランに感動して、もろ手をあげて賛成した。

 凛とした人に育ってほしい。この願いはいっけんするとまっとうだ。しかし、裏を勘ぐることもできなくはない。凛としてしっかりとするということは、一本筋が通っていることだ。一本筋が通っているというのは、基礎づけられていることを示す。同一化されて、全体化される。こうした流れを見てとるのは、よこしまな部分もなくはない。たんに、無気力なのではなく、活力のあるしっかりとした国際人になってほしいだけかもしれない。

 基地をつくる発想から、学園のあり方が形づくられた。それがあることで、関わる政治家の人たちにもうま味がある。自分たちの政治信条に親和的な人を育てられる。即物的な言いかたをすると、再生産できるのである。そして、学園にかかわる関係者の中には子どもの保護者なんかもいるから、そういう人たちをもとり込むことができる。母校愛の心理がはたらく。

 基地が必要だったのには、ほかの学校は基本として自由主義のあり方によっているせいもありそうだ。自由主義による教育では、どちらかというとメタ的なあり方をとる。中立性があるということだ。しかしそこへ、紅一点みたいなふうにして、実質的つまり偏りのある教育を打ち出すことで、差別化がはかれる。たとえ偏りがあるとはいえ、強く支持して応援してくれる人もいる。ウェブを含めて、世の中の風潮も、後押ししてくれる風が吹いてきつつもある。

 大半の学校は自由主義による教育をおこなっているといえる。しかしそれだと、心のよすがとかより所とはなりづらい。どちらかというと、自分で調べて知ってゆくみたいなあり方を推奨しているのもある。それぞれの勝手を許す。こうしたあり方だと、不確実さが残る。とりわけ(一部の)政治家の人たちにとっては、自分たちの確実な支持層たりえない。即物的にいうと、支持者が生産されないわけだ。なので、イデオロギー的な生産拠点となる教育の場所が必要だった。

 自由主義による教育が近代的な啓蒙によるとすれば、保守や右寄りの教育は前近代的神秘主義にあたるだろう。神秘主義といってしまうとやや語弊があるかもしれない。これは神話と言い換えてもよいものだ。ほんらい、前近代から近代へ移るさいに、魔術からの脱出を果たしたはずだったという。ところがまたそこへ回帰しようとしている。

 近代に入り、自由が増えたことはたしかだと言われる。それはまことにけっこうなことである。科学技術の発展の成果もあり、物質的富にも恵まれている。経済活動の自由がよしとされ、市場において自由に価値を取り引きできる。民主主義によって、政治的な活動もおこなえる。こうした面をとり上げると、世の中の全体が昔よりもよくなっていることはまちがいない。

 よくなっていることもある中で、そうではない部分もある。たしかに行動や発言の自由はあるかもしれない。しかしそれはあくまでも形式的なものにとどまってしまっていると言わざるをえない。昔に比べて、実質的な自由が増えたとは言い切れない。むしろ減ったおそれもある。科学または経済の論理が、全体を支配してしまっている。われわれには、同質化圧力や、数に換算する力が上からのしかかってきている。それによって、機械の部品のような無機的なありようにならざるをえない。生のありかたが断片化され、疎外される。

 こうしたなかで、それを改めるべく、民主主義の中からなにか専制主義(独裁主義)的なものが突出してくる。そうした世の中の動きがおきても、とくに不自然ではない。不自然ではないとはいえ、危険な徴候であることもまたたしかだ。民主主義は、けっして社会の安全や安定を保証しない。右にも左にも何にでもくっつく。(音楽には素人ではあるのだけど)かりに音楽でいうと、平均律のようなものだろうか。どの調性にも移調できるという。

 底ぬけに柔軟だといわれる資本の論理の中でよしとされるような、加速度または高速度の発想にのっかってつっ走るのはあまりのぞましくないだろう。あらためて、あえてスピードを遅くして立ち止まりつつ、来し方行く末をどうするのかを検討することもいるのかもしれない。くわえて、方法的な確実さをあえて手ばなして、がい然性をふまえた近似的な視点に立つ。まあまあとかだいたいのアバウトさをとり入れつつの、異なる者どうしの対話ができればよさそうだ。

生き残るために

 政治家の使命は、まずなによりも自分が政治家として生き残ることにある。生き残れなければ話にならない。とすると、それがいちばん上の優先順位となる。

 政治家は、自分が政治家として生き残りつづけるという目的合理性によって動く。とはいえ、それがすべてではなく、またいつもいつも意識しているわけではないだろう。しかし、いざ何かことがもち上がったさいに、いちばんに頭をかすめるのは、生き残るという目的だと見なせる。判断基準となる。

 自分が政治家でいつづけるという目的合理性にとって邪魔なものは不合理である。合理主義の観点に立てば、そうした不合理なものは障害でしかなく、排除するしかない。この排除されるものというのは、呪われた部分といえそうだ。

 なぜ排除されてしまう呪われた部分が生じるのかというと、利用価値がなくなってしまったことによる。この利用価値というのは、あくまでも合理主義の観点に立ったときに、ということだ。目的を果たすのに貢献するのでないばかりか、かえって足手まといになってしまうものは、合理性がいちじるしく低い。

 目的合理性にそぐうというのは、その目的を核とした世界像に適合するということだ。適合するのであれば、いっけんすると肯定的なふうにも受けとれる。しかし必ずしもそうとは言い切れない。というのも、いま現にぴたりと適合しているのだとしても、それを裏返せば、これから先においてもずっと適合できるとはかぎらないことを意味する。まわりのものごとは常に動いてゆくからである。たとえば結婚式で永遠の愛を誓った男女も、時が経てばその関係がうまくゆかなくなってしまうことも、残念ながらある。

 自分が政治家でいつづけるという目的合理性は、そうした世界像による秩序を保つことだろう。その秩序には、乱雑さ(エントロピー)が時とともにたまる。その乱雑さを排出しないといけなくなる。乱雑さとは、周波数がずれて合わなくなってしまった音のようなものでもあるだろうか。いままでは、周波数が合っていて、うまく機能していた。しかし何かの加減で雑音と化す。うまく波長を合わせられなくなった。そうすると、乗れなくなるのである。であれば、乗れなくなった部分をとり除くしかない。このさい、なたを振るわれるのが、弱者になるだろう。

 日本ではかつて講というものがあったそうだ。これは仲間うちで実利を共有しあう相互扶助の小集団である。こうした講の中では、意思疎通が滑らかに行えるかもしれない。しかし、基本として皆が皆もれなく協力者ばかりといった集団は考えづらい。協力的でない者がいるのが自然だ。協力的でない者とのあいだには、意思疎通の渋滞がおきてしまう。なぜそうした渋滞がおきてしまうのかというと、それは実利という媒介がうまくはたらかなくなってしまったときが挙げられそうだ。実利は媒介としてはそれほど安定したものであるとはいえない。