計画と実行と反省

 仕事というのは、計画と実行と反省(確認)のくり返しであるという。プランとドゥとチェックである。この 3つのうち、計画をとり除くと、無計画と実行と反省になる。これは即興的なあり方だといえそうだ。あらかじめ計画を立てないで、いきなり実行にうつす。こうしたやりかたが功を奏することもあるだろう。計画どおりにものごとが進むほうが、現実には珍しいかもしれない。

 計画と実行だけになり、無反省になる。こうしたことはけっこうありがちかもしれない。このあり方だと速さが出せるからである。労力を省く点では経済的でもある。反省してしまうと、自分というものが分裂する。反省する自分と、反省される自分みたいなふうになる。こうなると、確信をいだきづらい。なので、あまり好まれるあり方ではないといえそうだ。たとえば、自分の説を他人から反証されたとしても、それを素直には認めづらい。反証から逃れようとする。

 反省というのは、メタ的な活動だというふうに言えそうである。このようにして、いったん距離をとるようにすることもたまにはいる。日ごろは当然だと見なしているものごとについて、カッコに入れるようにする機会があればさいわいだ。そうした機会がまったくなければ、無反省のままつっ走ってしまう。小さいかすり傷くらいであればよいが、そうではなくて深手となるような痛手をいきなり負ってしまうのではまずい。

 実行というのは、決して悪いことではないわけだけど、軽はずみの行動が災いとなることもなくはない。まだとり返しのつくことならよいけど、そうでないものだと不回帰的になってしまう。後悔先に立たずなんていうふうにも言われる。そんなふうに他人に言えるほどお前はいつも慎重なのかと問われると、軽率なところも多々あるから返す言葉がない。ただ、いったん行動したことは、ものによってはもとに戻すことができないものもある。パソコン操作のようにアンドゥがきかない。だから、消極的ではあるけど、たまには立ち止まって反省することもあったほうがのぞましい。労力がいるし面倒ではあるが。

 むりやりに過去を歪曲してねじ曲げてしまえば、アンドゥがきくといえばきく。しかしそれは危険なことだろう。時間を可逆的にしてしまっているし、過去を可塑的(プラスティック)にしてしまってもいる。過去を固体ではなく、液体のように流動化してしまう。こんなことが許されてしまってよいのかといえば、そうとは言えないだろう。おきてしまった過去のできごとをアンドゥしてしまうのではなく、意味づけや価値づけを変えてしまうのも手だ。

 人間は成功からではなく、失敗の経験から教訓を学ぶ。とすれば、学んだことで成長したことになる。こうすれば未来志向につなげることができる。もっとも、ことはそうたやすく運ぶわけではないかもしれない。そのうえで、われわれ一人一人も、また集団としての国も、ともに自己相似的に、法的主体としてあるとすれば、あるていどの同一性の規範を守ることもいる。そうした同一性があることで、責任をとることができるわけだ。ただこうした法と同一性の点については、異論があるかもしれない。もっと公を重んじて、公に都合のよい法にするべきだ、なんていう意見もあげられる。

 ただ、公を重んじて、公に都合のよい法のありかたにしてしまうと、自己相似的ではなく、二重基準になりかねない。というのも、私には同一性の規範をあてはめて、法的主体としての責任を守らせるが、公はできるだけ束縛がないほうがよい、となりかねない。私も自由で公も自由という両立はなりがたい。というより、公の自由とは幻想であり、私(個)の自由しか現実には存在しない。富のこぼれ落ち理論のように、公の自由が私にしたたり落ちてくるようなことはないわけだ。思想家の吉本隆明氏は、自己幻想と共同幻想は逆立する、と指摘しているようである。

自然であるべきか、反自然であるべきか

 日本は自然の風土に恵まれている。人間と自然とがおのずと調和する。このようなとらえ方ができる。どちらかというとこれは性善説のような見かたといえそうだ。しかし、こうした見かたをとってしまうと、とり逃してしまうものもある。それは、性悪説的な観点である。

 自然とは、かならずしも人間にやさしいものではない。天災なんかの災害をとり上げればそういえるだろう。自然は厳しく、いっぽう人間社会は温かい。そんな対比もできなくはない。荒ぶる力をもっているのが自然である。そうはいっても、天災は忘れた頃にやってくるだとか、のど元過ぎれば熱さを忘れる、なんていうふうにも言われてはいるが。経験を風化させてしまうのはまずいかもしれない。

 自然と反自然というのでいえば、自然のもつ負の力を手なづけてできあがったものが、反自然としての制度である。そうした制度は、かならずしも万人から価値を認められるとはかぎらない。なぜなら、反自然であるためだろう。こうして、反(アンチ)にたいする、反々(アンチ・アンチ)のあり方が生じてくる。反々というのは、反にたいする反だから、どのみち人為ではあるだろう。

 反自然とは、ほんらいは自然の荒ぶる力を封じるためのものだといえる。しかし封じられたとはいえ、その命令に大人しく従うのではなくて、甘いささやきをもってある人を惹きつけようとする。その声は、生命価値を軽んじるようにとささやく。それに惹きつけられた人は、自然を荒ぶる力ではなく調和として見なす。そして反自然としての制度を、調和を乱す元凶だとして見てしまう。そこに価値の転倒がおきる。

 生命価値をいっけんすると大事に見なしているようでも、そこには逆説がはたらく。国民の生命を守るために、迫りくる他国からの外敵の脅威に打ち勝てるように備えないとならない。たしかに備えは必要だろう。しかし、国の防備がまるでなく、丸腰だとか無防備だと見なすのは正しいとはいえない。それは危機を過度にあおるための詭弁だと言わざるをえないだろう。

 科学技術の面で見れば、いっけんするとそれは生命価値を保つかのようにはたらく。しかし、国の人口は超少子高齢社会によって減りだしている。原子力発電などの科学技術は、自然災害の脅威の前では、確実に安全であるとはいいがたい。そうした破局がもしおこれば、生命価値がいちじるしく損なわれてしまう。それにもかかわらず、危険な技術から手を切るという大胆な決断は下しづらい。それはなぜかというと、一つには、われわれの生命が、質ではなく、量としてのみ計られてしまっているせいだろう。経済による同質性の論理だ。

 何をもってして合理的だと見なすのかは一概には言えないが、あるていどの反自然さによる規律を出発点とするのがよいだろう。仮説にすぎないが、万人がお互いに争い合うものとして見る自然状態の見かたもとられている。これを絶対視することはできないが、自然の野蛮さというのは無視することができない。完全な自然における調和という性善説をとるのは、したがって非合理であると見なせるだろう。

 自然を、あたかも調和を与えてくれるような性善説として見なしてしまうのは、かならずしも正しくはない。それは疎外論のモデルを呼びおこし、専制主義につながりかねない危うさがある。これは、精神分析学における無意識の概念が、ほんらいは悪いものだけど、逆によいものとして見なされてしまうことがあるのに少し似ているかもしれない。主体が気づかぬうちに無意識にそそのかされてしまっている、なんていうふうに使われる。しかしこれは、文脈を 180度変えてしまって、意識を悪として、無意識を(自然なるものとして)善とすることもできなくはない。

 中国の道教では、無為自然がよしとされる。人為的なものはなるべく無いほうがよい。そうした発想も、かならずしも間違っているとはいえそうにない。ただ、自然をかりに直接性とすることができれば、そうした直接性はロマン的な幻想であるおそれがある。たとえば人間は、言語という人工的で物質的なものを介してしか意思疎通ができない。これは間接的なありようだ。

 純粋で調和をもたらす自然というとらえ方は、直接性のあらわれであり、気をつけたほうがよいと言えそうである。そうはいっても、不自然なものに耐えてゆくのがよいのかというと、それもまた一概には言い切れない。もしかしたら、かぎりなく人為的な制度をなくして、シンプルにして自然であるようにしたほうが、うまくゆくようになるという可能性も捨てきれない。

 資本主義による拡大(蓄積)再生産の肥大化がすすむと危うい。地球上の人間や自然がもつ過剰さを処理するためには、どこかで蓄積したものを手ばなして蕩尽することがいる。そのようなことが行われないと、あやまった自然さの観念ができあがり、それをとり戻そうとして、悲劇的な破壊活動がおこなわれてしまうこともありえる。あるべき自然さへの回帰の動きには、帰結を無視するような、よからぬ破壊につながってしまう面もありそうだ。

白と黒に割り切れない場所としての東洋

 日本における、アジアにたいするとらえ方をあらためて見る。正直いって、アジアについて、すごくぼんやりとしてばく然とした知識や認識しか持っていなかった。そうした不勉強なところがあったんだなあというふうに個人的に実感した。

 日本の戦前や戦中においての、過去の歴史問題をふまえるさいには、アジアの場所(トポス)の性格を見たほうがよい。そういうことが言えそうだ。当たり前といえば当たり前であり、何をあらためてそんなことを言うことがいるのか、との批判を受けるかもしれない。生半可な知識を振りかざすな。そうした批判があるとすれば、当たっていると言わざるをえない。

 そうした部分はあるのだけど、アジアの地を、位相として、場所的(トポロジック)に見ることがいる。そのような気がするのである。というのも、まず、歴史問題では、日本にたいして、韓国や中国などの近隣諸国は反日になってしまっているところがある。しかし、このように見てしまうと、一様な見かたにならざるをえない。

 韓国や中国などの近隣諸国とはちがい、ほかのアジアの国のなかには、日本にたいして手ばなしで好意を持っている国もある。このような見かたはあまりとりたくはない。というのも、そのように見てしまうと、一様なふうになってしまうからだ。そうではなくて、日本にたいして、反発する反日でありつつ、かつそれと同時に親日でもある。こうした複雑で矛盾した心もちがあってもおかしくはない。

 複雑で矛盾したありようがあるとしても、それを認めたくはない。分かりづらいからだ。しかし、アジアとは、多様であり、いろんな要素が混ざり合っているものだという。それは、不純であるといえる。両価的(アンビバレント)だ。

 かりに、韓国や中国が反日であるとすると、ほかのアジア諸国は、その反日の部分を半分(または一部)含みもつ。そのようにとらえることができるのではないか。これは、戦時中に日本の軍に侵略されたアジアの国においてのことである。完全に反日なわけではないが、かといって完全に親日なわけでもない。過去の残虐なしうちによる悲劇を忘れるわけではないが、かといってそれだけにこだわるのでもない。

 過去の残虐なしうちによる悲劇などと言って、さもじっさいに見てきたようなふうに言うな。過去のことなのだから、それを正確に知った気になるのは精神のおごりである。そのようにも言えるかもしれない。しかし、こうした見かたには、一様にものを見ることにつながるところがあるのもいなめない。白か黒か、という見かたへの誘因がはたらく。二者選択をとる。しかしそうではなく、アジアの場所においては、白でも黒でもない、灰色という中間のありようを中心にふまえたほうがよい。非西洋的ではあるが、そのような気がする。

 中間とはいっても、それはあいまい化してごまかすことではない。負の痕跡を無視するのではないのがのぞましい。そうした痕跡は、それに接する者にたいして、呼びかける声をもつ。そうした声を聞き、了解することがあってもよさそうだ。声を聞けとはいっても、耳をつんざくような、響きと怒りはけっして快いものではない。そうした喧騒のまどわしの中にあっては、かえって現実がかき消されてしまい、しかるべき事態から逃避(回避)することになりかねない。

 声を聞き届けよとはいっても、それは虚偽的な感傷主義(センチメンタリズム)ではないのか。そうした感傷的な言辞を弄するのは、現実から離れてしまうおそれがあるため、よくないことはたしかだろう。しかし少なくとも、決してそうしたい気持ちがあるわけではない。アジアの国には、戦時中に日本の軍が残した負の痕跡が、いまも刻み込まれている。本来あるべきではない体験が傷となって記憶され、それが開かれた傷口となって記録される。これはあくまでも解釈の一つにすぎないかもしれないが、そのように見てみたい。

 どのみち、戦時中に日本軍が他国にとても悪いことをしたと言おうとも、また逆にそんなことはしなかったと言おうとも、どちらにせよ、その前提は疑うことができる。疑いに切りがなければ、水かけ論にならざるをえない。そこで、その水かけ論を止めるために求められるのが神だ。神とは、聖なる者であり、暴力によって不条理に排除された人をさす。それはできれば(他国の)他者であるのがのぞましく、でないと自己の神格化(自己正当化)や自文化中心主義につながりかねない。

 もちろん、そのように求められてできあがった神を否定することはできる。また、神を心からは信じられないこともあるかもしれない。不信が芽生える。そうしたことがいけないとは一概には言い切れない。絶対化するのもそれはそれで問題ではある。神の死の文脈においては、よくても仮象にすぎない。しかし、媒介としての神がなければ、直接的な二者どうしの意思疎通はそもそも不可能だという現実もあるという。ぶつかり合ってしまうためだ。

 そうしたわけで、アジアの場所としての多様さや複雑さや両価性というのが、重みをもつのではないかという気がする。一神教ではなく、多神教的であるものだろう。一神教であれば主体が中心をになう。しかし多神教であれば、主体の絶対性をカッコに入れられる。排斥ではなく包摂する。

 包摂だとか言っても、現実がそんな絵にかいたようにうまくゆくとはあまり考えられないのもたしかだが、主体(主語)ではなく場所(述語)による論理というのも、バランスをとる上ではありなのかもしれない。それは主と客との入れ替えの試みであり、もっとも遠いもの(無意識)と近づくことである。必ずしもきれいではない自分のなかの暗い欲望や欲動と出会う。

漢字と政治的正しさ

 嫁という字は、あらためて見ると差別的だなと感じた。漢字の成り立ちが、文化的性の押しつけになっている。それで、熟語で転嫁というのがあるけど、これもおかしいなという気がした。使われ方としては、消費税の増税分を商品の価格に転嫁する、なんていうふうなのがある。増税は消費者にとってはいやなものだけど、役人や政治家にとっては自分たちの天下の維持につながる。そんな勘ぐりもできるだろうか。

 問題があるとはいえ、姑の精神みたいにして、いちいち漢字や熟語の非をあげつらってみても、そこまで生産的ではないかもしれない。ともすると、重箱の隅をつつくみたいになってしまう。それに、悪意があって使うのではなく、無自覚なのだとしたら、とりたててそれを責めてもしかたがない。言葉もそうだが、それと同じかまたはそれ以上にじっさいの社会のありかたが変わらないといけないだろう。どちらを先に改めるかについては、意見が分かれるところだ。またはそのままでよいという人もいるかもしれない。

 性のちがいについての、言葉の使い方や成り立ちの是非というのは、政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)の範ちゅうに入りそうだ。政治的正しさの一方的な押しつけはおかしい、なんていう声もあげられてはいる。しかし、漢字や熟語における性のあらわし方は、明らかに偏っていることはたしかだ。これに関しては、今の時代にそぐうように、中立的なものができたらよさそうである。性的少数者の方への顧慮(こりょ)をすることもいる。

 政治的正しさのつねとしては、たしかに、いくら正しい(または間違い)といっても、言葉狩りの行きすぎのようになってしまうと、それはそれでやりすぎかもしれない。へたをすると正義の過剰になる。言葉は、使う人の自由や好みというのがあるのも無視できない。あと、自分をへりくだるようにすることで、ものごとを丸くおさめるという知恵もある。自分以外の人を立てるわけだ。それを全てよくないことだとするわけにはゆかないだろう。

 選択の点にかんしては微妙(デリケート)な面がある。本人の意思でふるまうとはいえ、偏った選好(選択と好み)が形づくられてしまうという指摘ができなくもない。社会があらかじめ偏っているためだ。これは、ある特定のイデオロギーからの呼びかけに応じてしまうかどうかの要素が関わる。社会や国家が、こうせよだとかこうあるのが正しいと言うとしても、その干渉はほんらいはまったく無いかもしくは最小限でないとならない。かつ、そこから個人が好きなように逃れられるような自由も十分にあるべきだろう。犯罪なんかだとまた別な話になりそうだが、そうでないものについては、柔軟なほうがよい。自由主義からすると、そのように言えそうだ。

事実からなのか、価値からなのか

 価値から事実をみちびく。これはまちがいであり、事実から価値をみちびかないといけない。科学なんかの見かたに立てば、そういうことが言えるのだろうか。しかし、かりに価値から事実をみちびいてしまうのが非科学的だとしても、それは多くの人がしばしばおこなってしまうものだと言えそうだ。だからとりたてて取り上げることはいらないかもしれない。

 言語の行為には、事実(コンスタティブ)と執行(パフォーマティブ)の2つの面があるといわれる。後者の執行とは、ある発言や文のひとまとまりのなかで、あるいはそれによって、何かをなそうとするものだ。英語の前置詞でいうと、in(の中で)とか by(によって)に当てはまるそうだ。

 執行の面があることによって、事実とのずれがおきる。内面性ができあがる。しかし、それだからすなわち間違いだとはなりづらい。そうはいっても、完全に事実と切り離されてしまうようだと、極端であることはまちがいないだろう。なにか特殊な受けとり方をしないかぎり、広く受け入れられそうにはない。

 思想家の吉本隆明氏は、言語において、指示表出と自己表出があると説いたそうだ。これは、意味と価値として言うことができるという。それでいうと、意味だけではなく価値の観点というのが小さくない意味をもつ。そうした価値の面を切り捨ててしまって、意味だけによっていればよいのかというと、そうとは言い切れない。かといって、価値だけになり、意味を欠いてしまうようでは極端であるからちょっとまずい。

 自己表出として、自分の目や耳でものをとらえて、それをもとにして何かを外にあらわす。そうしたふうであれば、価値から出発しているといってもさしつかえない。自分が何を価値としているのかを抜きにはできないところがある。したがって、価値から事実をみちびくことは、とくに珍しいことではない。

 価値から出発するのは、転倒しているといえばそうとも言えるのだろうけど、人間の世界はそこまで整然とはしていなく、一皮めくれば雑然としていると見ることができる。万人が承認をかけて血みどろに争いあう、自然状態の野蛮さがすぐそばで顔をのぞかせている。そういったわけで、事実というよりも、価値づけ(判断)またはモラル(何々であるべき)に引っぱられてしまうところがあるのだろう。

思っていたよりも悪い人ではない、ということについて

 思っていたよりも悪い人ではない。悪い人だと言われているけど、じっさいに会ってみたら本当はよい人だった。みんな誤解しているだけだったのだ。こうした気づきによる受け入れ方の変化がある。悪い人だと言われているのは、誤解が広まっているにすぎない。とはいえ、よい人だとか悪い人だとかいうのは、それぞれの受け止め方のちがいが関わってくるから、一概にこうだと決めつけられはしないところがある。

 悪いと言われていて、じっさいに会ってみたらやっぱり悪い人だった。または、よいと言われていて、じっさいに会ってみたらやはりよい人だった。こういうふうであれば、分かりやすい。ひねりがないからだろう。接続詞の順接でつながっているようなあんばいだ。

 悪く言われているけど、じっさいには悪いのではなくよい人である。この例では、二重性格をもつことになる。悪く言われているのと、よいのとの 2つが重なり合うからだ。悪いというのはけがれであり、よいというのは清さ(聖)であるとできる。たんに悪いだけならけがれを持つだけだが、それによいというのが加わると、聖化される。

 憎まれっ子世にはばかる、なんていうことわざがあるけど、悪く言われているものというのは、それだけでは終わらないことがある。その点がともすると恐いというか、危ういところなのだろう。恐いとか危ういといっても、何をそんなに危ぶむことがあるのか、と言われるかもしれない。たんに臆病なだけなのではないか、ということだ。

 たしかに、そうした面はあるかもしれない。悪く言われているとして、じっさいによい人であるとすると、そこに何の問題があるのだろうか。悪く言われているのが間違いなのであり、その広まってしまっている誤解をとけばそれですむ。じっさいにはよい人なのだからだ。不遇であり、不当におとしめられている。しかし、そこにほかの可能性がまったくないとはいえない。

 自分の中で、それまでの実感が正反対のものに変わっただけなのなら、とくに問題はなさそうだ。自分の中だけではなくて、それが社会関係の文脈になると、事情が少し変わってきてしまう。承認という要素が入ってくる。何とかして人に認めさせたい。こうした欲望が強まると、自我によるロマン的な動きにつながる。政治化するわけだ。

 じっさいにはよい人とはいっても、それは表面的によい人に見えるだけにすぎないおそれもある。じっさいにはよい人だ、のさらに奥に、じっさいにはどうなのか、というのがある。じっさいのじっさいとして、メタ的であるような、入れ子構造のようになっている。玉ねぎの皮を向いてゆくようなふうだろうか。決定不能のような構造になっているわけである。だから、悪く言われている人(または物でもよい)がいたとして、その人をへたによいものに聖化して聖別するのはけっして安全なことではない。そのように言えそうだ。

痛みと歴史

 近現代の歴史については、色々な見かたがとられている。左と右があるとして、その両方の顔を立てるかたちで、真ん中あたりに落ち着かせる。現状は、こんな感じになってしまっているのかなと勝手に推測している。おもうに、このあいだをとるという落ち着かせ方は、もしそうなっているのだとすると、あまり望ましいことではない。悪い意味で折衷してしまっている。

 ごまかしではなくて、ほんとうの歴史であるべきだ。もしそのように望むのであれば、自分たちに都合のよい見かただけをよしとするのを捨てなければならないだろう。自分たちに都合の悪いことも受け入れる覚悟をするのがのぞましい。自分たちに都合が悪いことがあっても、それをきちんと受け入れられる覚悟がないのであれば、ほんとうの歴史などそもそも求めるべきではないだろう。痛みなくして得るものなし(no pain,no gain)、という面はありそうだ。痛みには覚醒のきっかけがある。陶酔を求めるのなら、それを避けるしかない。

 どのみち、神さまではないのだから、完全なありようを知ることはできづらい。人間のやることであるから、不完全にならざるをえない。だから、なるべく多様な意見があり、それらを総体して見たほうがよいかもしれない。閉じているのではなくて、開いているようなあんばいだ。

 純粋な善と、純粋な悪として、両極端の可能性がとれる。極端なことは、基本としては現実的でないと見たほうがよい。そのうえで、かりに純粋な善であったとしても、もしそうであればあまり問題はない。意識しなくてもよいわけだ。なぜなら、どんなに悪く言われようとも、ほんとうは善であったのだから、馬耳東風でもかまわないからである。このさい、ほんとうは善であるというのに力点がかかっている。

 問題なのは、純粋な悪であった場合だろう。もし、純粋な悪であったとして、それを善にすり替えてしまうとすれば、このすり替え自体が悪の上塗りだとは言えはしないだろうか。この悪の上塗りを最大限に問題視することはできる。自己正当化するのを不当だと見なす。たとえ微小ではあれ、悪であったおそれをこそ、意識するべきだ。

 ほんとうは純粋な善であったさいには、もしそれが悪く言われたとしても、排除されるのは自分である。自分が排除されることは、(逆説的ではあるが)自分が正しいことの裏返しの証明にならなくもない。善とか正しいことは、必ずしも広く世に受け入れられるとはかぎらないものだろう。しばしば辺境に追いやられてしまうことも少なくない。真実はえてして断片や細部に宿る。

 いっぽう、ほんとうは純粋な悪であったさいには、それを歪曲したさいに排除されるのは自分ではなく他者だ。他者を排除してしまうのは、暴力を他者にふるうことにつながる。否定的な契機の隠ぺいだ。だから、その媒介である他者を何とかして救い出さないとならない。表に明るみに出さないといけない。そういうふうに見ることはできないだろうか。

お礼を贈る

 コンビニエンスストアのトイレに入る。すると、そこには、こんな文言が書かれてある。いつも清潔にご利用いただきまして、まことにありがとうございます。お店側としては、トイレを使うお客さんにあまり便器を汚してほしくない。なるべくきれいに使ってもらったほうが、掃除をするときの手間も少ないのだろう。そうした理由から書かれているものであると察せられる。

 先にお礼を書いておくやり方は、贈与論の観点から見ることができそうだと感じた。お礼が書かれているのを見たお客さんは、前もってお店からお礼を贈与されたことになる。なので、その返礼をしないとならない。お返しとして、お礼で期待されているような行動をとるわけである。そうすることで、借りがなくなり、つり合いがとれるようになる。なかには神経が太い人もいて、まったく注意書きに無頓着でも平気な場合もあるかもしれない。

 こうしたやり方は、国と国とのあいだの平和につなげることに役立たないだろうか。仲が悪くなってしまった国にたいして、あらかじめお礼を言っておく。そうすることで、その国に贈与して、貸しをつくるのである。うまくすれば相手の国をこちらの意に沿うように誘導することができる。そうはいっても、もし見透かされてしまえば、見え透いた手のために、かえって逆効果にはたらくこともありそうだから、現実には難しいかもしれない。浅知恵ではあるが、もし相手がうまく受けとれるような球を投げられれば、少しくらいは効果があるかも。企てというよりは、試みとしての切り口だ。

次元の食い違い

 頭のよさには、いろいろな尺度がありえる。そう言ってしまうと、頭のよさは人それぞれ、なんていうことになる。別に、そのように言いたいわけではない。たとえば、数学が飛び抜けてできる人なんかは、さぞ頭がよいのだろうなあというふうに感じる。そうした能力がないので、うらやましい。うらやんでもとくに意味はないわけだけど。

 頭がよいというのには、何かが飛び抜けてできるという、加算的な見かたができる。人よりも何かが突出してこなせるような、特別な能力をもっている。そうした人には、権威が生じることがある。専門性をもっていれば、そうした権威が生じるのは自然である。ただ、両面価値的なものであることはいなめず、ときには主張を疑って受けとることもいるだろう。

 頭がよいというのには、加算的でない見かたも成り立つ。これは、何かが飛び抜けてできるというのではない。凸ではない。おもうに、何かが飛び抜けてできたり、突出して何かができる人は、その反面で、何か肝心なものが欠けていることもあるのではないか。凹みたいなものを持っているわけである。

 凹であるものの一つに、陰謀理論なんかがある。というのも、陰謀論を当然の前提に話をされると、違和感を感じざるをえないところがある。すごい高度な凸の話が、陰謀論という凹を前提にしているとなると、一体どういうことなんだ、なんていうふうな気がしなくもない。次元が整っていず、混乱しているようなあんばいだ。

 陰謀論が凹だとして、負の価値と見なすのは、当人にとっては通ずるものではない。それを現実として信じているのなら、少なくともその人にとっては現実味がある。ただ、そうした確証をときには相対化できればのぞましい。しかし、あまり端がとやかく言うことでもないかもしれない。くわえて、お前はどうなんだと言われれば、自分は例外だとは言い切れそうにないのもある。多かれ少なかれ、時代の迷信に染まっている面はあるだろう。早とちりで情報をうのみにしてしまうことがあるのもたしかだ。

 陰謀論が凹だというのは、わりと次元が低いことだという気がするからだ。そのため、まずはそこを解決したほうがすっきりする。しかし、凹を根拠や前提にして、そこから基礎づけて凸ができあがっていることもある。そのようになっているのであれば、まず基礎づけをいったん取りやめることができればよい。もっとも、取りやめてしまうと、方法的な確実さが失われてしまう。しかし一方で、現実の複雑さや複合性を汲みとることができる利点が生じる。

 実存主義でいえば、本質は存在に先立つのか、それとも実存は本質に先立つのかのちがいがある。この本質の部分には、たとえば国家だとか民族だとか、ある特定の集団や組織なんかが当てはめられるわけだ。そうしたなかで、ある集団や組織なんかを、一枚岩のようにして見てしまうと、逆に本質を見誤ることもありえる。少なくとも、仮説であるとしたほうが無難だろう。

 本質というのは、ポストモダンでいわれるように、接合してしまうこともできる。英語の接続詞の and を用いるようにして、何々と、何々と、というふうに後ろにくっつけるのである。そうすれば、意志というのを薄めてゆくことができる。敵は、われわれをおとしめようとする意志をもつものだけど、接合で見ていって、色々な要素をくっつけてしまえば、必ずしも敵とはいえなくなる。

道義国家の内実

 道義国家をめざす。稲田朋美防衛相はこうしたことを提唱している。この道義国家とか道義大国というのは、典型的な修辞(レトリック)だという気がする。なんとなく、こうした道義みたいなのを国家に形容詞としてつなげれば、さもそれが備わっているかのような印象がおきなくもない。でも、肝心の内実はどうかという点では、心もとないようだ。効果が先走ってしまっている。

 道義国家をめざすのはいいだろうけど、それにはハードルが高いだろう。たとえば近隣諸国との歴史認識のもめごとにおいても、ひと筋縄では解決はできそうにない。もし道義国家であるのなら、それにふさわしいふるまいをしなければならないのはたしかだ。しかし現実にそうしたふるまいができているのかというと、色んな要因があって(全体としては)まだできていないのが現状である。相手の文脈を理解するという段にはいたっていない。

 道義国家をめざすというのと、とり戻すというのとがごっちゃになっているふしもありそうだ。この混同はちょっと変である。とり戻すというと、あたかも過去にそうしたものがあったかのようだ。しかしそれは想像の中にしかないものだろう。想像の中にしかない、なんてきっぱりと言い切ってしまうのは、乱暴に響くかもしれない。しかし、建て前にあったものと、じっさいにどうだったのかというのを、とりちがえてはまずい気がするのだ。

 道義国家をめざすのであれば、下降史観や疎外論のモデルを相対化するべきだ。下降史観というのは、今はだめな世の中で、かつては善きありようがあった、と見なすものである。しかしこうした見かたは現実的とはいえそうにない。戦前や戦中と現在(戦後)を比べてみれば、明らかに改善したり進歩したりした面がある。そこをふまえたほうが合理的だろう。戦後、だめになったところもあるかもしれないが、その一部を全体視して、すべてがだめだとするのは合理的ではない。

 疎外論のモデルでは、今われわれは疎外されているものとして見なす。そして、しかるべき本来のありようがあり、そこに到れれば幸せになるとする。本来こうなんだというのは、今がだめなんだというのと結びつきやすい。しかしそれはあくまでも、本来性と現実性とのつり合いのなかで見ないとならない。そして、もし本来性が現実になったとして、それが本当にのぞましいものなのかどうかはよくよく吟味することがいる。思い描いていたのとはちがい、あてが外れたなんていう例は、枚挙にいとまがない。

 道義国家だとか道義大国なんていう大きな言葉は、あまり適当なものだとは思えない。徳治主義みたいである。徳をもつ治者がいて、その人が国を治めるという発想は、ちょっと前近代的な気がする。西洋ではマキャベリが、そうした人のかがみとなるような君主を、虚偽(イデオロギー)だとして批判していたようである。

 修辞もよいけど、あまりその効果に偏りすぎると、虚構になりかねない。政治において、不確実な先行きから逃れたいばかりに、権威に酔ってしまうようになるのはあやうい。そこはできるだけ自覚的でありたいものだという気がする。虚無の現実に耐えられず、見せかけの価値なり目標に慰めを求めてしまう弱さがあるのを、認知することもいるだろう。