土地売却と贈与

 学校の敷地にするために、国有地を取得した。その土地の売却において、不正が行われたのではないかとの疑いがおきている。大阪の森◯学園をめぐるものである。この問題においては、マルセル・モースの説いたとされる贈与論の心性がかいま見られるようだ。現在の政権は安倍晋三首相が率いているわけだけど、首相と森◯学園とのあいだにおける贈与である。

 首相は自分の口から、学園の関係者との直接の交流があったことは否定している。しかし、少なくとも間接的にはあったことはたしかだろう。首相夫人の昭恵氏は、名誉校長としてかかわっていたと報じられている。くわえて、政治政党の大阪維新の会と学園とのつながりも濃いことが、関係者の指摘によって明らかにされているようだ。

 贈与の心性は、時代思想でいえば、前近代的なものである。なので、近代的な面から見れば、できるだけ深みにはまらないのがのぞましい。一般の人ならとくに問題はないが、権力を有しているものには、外からの甘いささやきがつきまとう。そこから弱みにつけ入れられるおそれがある。そうしたものをきっぱりと断ち切れれば立派である。

 ゼロにしなくてもよいだろうが、できるだけある特定の者とのあいだにおける贈与の関係は、権力者であれば少なくするように努めるのがふさわしい。なあなあになってしまうだろうし、つき合いに切りがないのもある。特定の者だけをえこひいきすることにつながりかねない。

 合理で割り切れないような、神秘的なものに関心をもつのもよい。しかし、それが行きすぎてしまうと、はたから見ると、病んでいるのかな、なんていうふうにも感じてしまう。病んでいるなんていうのを勝手に決めつけてしまっては、失礼にあたるからよくない。ただ、前近代的な魔術のようなものから、脱するようにしてできたのが近代である。だから、前近代的なものへ退行するのだと、まずいのではないかという気がする。あまり人のことはとやかくは言えないわけだけど。

 いったい何を神秘であるとしているのかというと、たとえば当然のこととしてあちらこちらでしばしば行われている、自民族中心主義の発想だ。よくないことだけど、ときには、無自覚にやってしまうこともなくはない。これは当然、他民族への差別に行きつく。このような、他民族への人種差別だったり、あるいはひどくなるとせん滅(ジェノサイド)だったりというのは、失われた自然への憧憬のようなものから来ているのだそうだ。

 かつては、全体とのつながりをもつ有機的な自然があった。しかしそれは、近代においては、無機的で機械的なものに変質させられる。どこを切り取っても同じである、等質で均質な時間や空間となる。等質であるために、ものごとを進めたり計画を立てたりするのに便利になった。見通しをつけやすい。その反面で、自然との素朴な融合や合一のようなものを失ってしまった。支配し、支配される関係となる。

 いまの世の中にも、まだ自然だとか有機的なものは多く残されているわけだけど、それは機械論の世界像のなかにいやおうなく組み入れられているわけだ。それによって、量として計算可能なものとなる。そうでない、たんなる質というのは、計算不可能であり、排除される。あってはならないと見なされてしまう。人であれ物であれ、部品として使えるものだけが、有用なものとして受け入れられ、世の中に適合できるのだ。

 近代によって失われたものであるのが、純粋に有機的な自然との融合だ。なので、もはや手に入れようがない。時間は不可逆であり、もう回帰(リターン)はできないのである。あるのは、でっち上げられた起源からくる神話だけだろう。または、決定的に失われた自然の痕跡だけである。そういうわけだから、近代の数少ない正の遺産をふまえつつ、できるだけ合理的にものごとを出発させるべきではないだろうか。

圧のかかり方のちがい

 内に抱える圧をふまえるのもいる。この圧というのがいわば入力のようなものである。そして、そこから出力としての爆発がおきる。爆発の強さというのは、かかっている圧の強さに比例する。なので、爆発が強いということは、圧が強いからであることが察せられる。

 入力である圧は原因であり、出力である爆発は結果である。結果だけを見ることもできるけど、原因もふまえておくことで、より総体的にとらえることができるようになる。原因と結果というのは、必ずしも疑いえないものではない。たんなる一つの解釈にすぎないものでもある。そのうえで、たんに結果だけを見て断じるよりは、いくらかはましになる。

 たとえ圧がかかっているとはいえ、それは必ずしも作為的なものとはかぎらない。作為的なものでないのなら、それは構造的暴力にあたる。しかし、そうしたばく然とした、つかみ所のないことでは、なかなか気がおさまらない。何か特定のものに原因を押しつけることで、少しでも気が晴れたりうさが晴れたりするものである。

 一方的に責任を押しつけられるほうにとって見れば、たまったものではないこともたしかである。いわれのないことについては、しっかりと反論するべきだろう。それと同時に、歴史の流れのなかで、どちらの側が弱者であったのかを見ることもいる。2者関係において、時系列による分析によって、力関係が見えてくることもあるのはたしかだ。

 力関係というのは、対等なものではなく、どちらかが有利(不利)であることが多い。偶然の、運(不運)による要素もかかわってくる。これまでの流れのなかで、不利または不運であったものにたいして着目するのが、本質的な見かたに少しでも近づくためにはいりそうだ。そのさい、自分たちを不利または不運としてしまうと、自己正当化につながってしまうので注意することがいる。

 誰にだって、苦しい圧というのは、多かれ少なかれ外側からかかっている。しかし、それでみなが同じ条件および境遇だとするわけにはゆかない。それだと、下手をすると詭弁になってしまうからである。そうした、水かけ論のような平等(対等)の見地に立つのではなくて、不平等であるという現実の見地から出発するのも手だろう。

 心象というのは、言語によって形づくられるものであるから、固定化するのだけでなく、解体することもできる可能性がある。それには、方法的な確実さや確証を手放すことがいるわけだけど。象徴というのは、たいてい過程だとか部分だとかを切り捨ててしまっていることが多いという。そうした切り捨てられたところを改めてふまえてみることで、より適切な象徴のやりとりが、互いにできるようになることもありえないことではない。

 後方効果(バックワード・エフェクト)といって、うしろに遡及的にはたらくものもあるのだそうだ。これは、演繹ではなくて帰納的なありかたである。はじめにこうだと思っていたものが、ある小さな事実でもいいんだけど、それを知ることで、がらっと見えかたが変わったりする。そういう経験もたまにはなくはないと思うんだけど、これは後方へ遡及して効果がもたらされた結果によって、全体が変わったのである。このような、全体と部分との循環的な関わりも見すごせない。

モンスターカスタマーの貼り紙

 お店で、お客からいわれのない暴言を吐かれる。これは、店員からしてみたら不条理そのものである。そうしたことがあって、千葉県にあるマクドナルドのお店では、貼り紙を店の前に貼ることで対応したという。店員に暴言を吐いたお客の顔入りの写真を載せていて、犯罪者を探しています、という文言で訴えている。

 この暴言を吐いたお客は、モンスターカスタマーに当たりそうだ。報道によると、そのトラブルがおきたときは午後 10時だったそうだ。そして、そのお客は酒に酔っていたのだそうである。お店側としては、なぜ貼り紙を貼るという対応をしたのかというと、逃げ得をさせまいということからのものであると推測できる。

 お店の側は、トラブルがおきたさいに、警備会社に通報して、警察にも報告しているのだから、いちおうそれでよしとすることもできるが、さらにその上に、顔入りの写真を載せた貼り紙まで貼っている。これについての是非は分かれてしまいそうだが、いささかやりすぎな気がする。このトラブルは、店には重いことだろうが、ほかのお客さんにはとくに関係がない。貼り紙があることで、ほかのお客さんがお店を利用するさいの心理的効用を少し損なってしまうおそれがある。

 おどしも少しふくまれた暴言は、犯罪であるとはいえ、1回きりなら、軽いものである。軽いから許されたり見逃されるとはいえないわけだけど、犯罪すなわち重大だと見なすのもやや大げさだ。そして、張本人がいまは反省の気持ちをもって、後悔しているかもしれない。そこにたいする惻隠(そくいん)の情をもつこともできるだろう。いまの時代は、ウェブで情報が拡散されてしまう。なので、罪と罰のつり合いから見ると、全国に一般人の失態(犯罪)が拡散されてしまうというのは、やややりすぎではないだろうか。お店側の心情はわかるにしても。

月末の金曜日

 月末の金曜日は、午後 3時くらいに会社から出る(帰る)ようにする。これをプレミアムフライデーとして、政府や経団連は推し進めようとしている。それについて、まず、名前に違和感があるなと感じた。文字数が多いのが気になる。10文字もある。もうちょっと縮めてもよいのではないか。俳句や短歌のような 57調にするなどの工夫があったほうが広まりやすそうだ。あと、発音がしづらい。すっと言いにくい。いちばん最初のプが半濁音のせいもあるかも。

 新しい案などに呼び名をつけるのに、なにかと行政は横文字を使うきらいがあるのがこれにも出ている。フライデーはいいとしても、プレミアムとはいったい何なのかな。プレミアムというくらいなら、稀少性があるのがふさわしい。しかし、みんな一律にやるのなら、そこにプレミアがあるとは思えない。プレミアムはお得感があってよい意味だからという、ふわっとした理由で呼び名がつけられていそうだ。

 経団連の関係者は、このプレミアムフライデーを、買い物につなげるだけではなくて、柔軟な働きかたの意識にももってゆければとの心境を述べていた。これをきっかけにして、労働意識に風穴を開けたいといったことなのだろうか。まだ普及率は 3パーセントくらいにとどまっているみたいではある。労働を美徳として、文化価値をもたせてしまうのが、少しでも改まればよい。労働は自由にする、というのはナチスのかつて掲げていたモットーだったわけだけど、これは反語であることもたしかである。

幼稚園の教育

 大阪にある塚本幼稚園では、愛国主義や日本主義をよしとしているそうだ。それで、海外からも注目され、ロイターで記事にされている。海外の報道機関は、日本の右傾化の動きにたいする懸念を示している。戦前や戦中の思想に回帰するのではないかと危ぶまれているわけだ。

 とくに問題だなと思ったのが、幼稚園で歌われている歌の歌詞である。これは作詞家の秋元康氏がつくったものとされる。あからさまに批判されないように、できるだけ抽象的なふうな歌詞にはなっている。一点だけ、中盤にある、この国を信じてよかった、という箇所は、個人的にはいただけない。幼稚園児はすごく素直だから、この歌詞の内容をそのまま信じてしまいかねない。大人であれば、痛烈な皮肉だという受けとり方もできなくはないだろうが。

 教育勅語なんかをとり入れてしまっているのは、教育というよりも、全体主義的な教化であると言わざるをえない。おもて向きで教育だといいさえすれば、それで問題はないのだろうか。内容(テクスト)というよりも、それが使われた歴史の文脈(コンテクスト)をふまえるのがいる。歴史の文脈を隠ぺいしてしまうことになったとして、それでも教育といえるのかは疑問だ。

 愛国主義や日本主義でなにが悪いのか。そのようにも言えるだろう。伝統を重んじるのはとくに悪いことではない。ただ、主義になってしまうのはちょっといかがなものかとは言える。ようするに、美談主義になっているのである。ここにはどうしても、虚偽的なイデオロギーが入りこまざるをえない。それにくわえて、崇高さをよしとするのにも気をつけたほうがよいだろう。これはロマン的なあり方にもとづく。必ずしも現実に根ざしているとは言いがたい。

 この幼稚園では、卒園した子どもが世間に潰されてしまいかねないとして、小学校の運営もするとして、そこで論語を教えるのだそうだ。論語は、そもそも中国から輸入したものだけど、それでもいいのかな。日本主義ではなくなってしまうわけだけど。それだと、頼るものが西洋から東洋(中国)に切り替わっただけのような気がする。

 大人がよいと思うような子どもにではなくて、そうしたのを突き破るような子どもに育つ。あえて出る杭となれ、が園のモットーの一つになっているようなんだけど、それは、大人のいだくのぞましさから、外れてゆくことでもあるのではないか。それは一様にではなく多様に発展することだ。剣道や茶道では、守破離といわれる教えがあるとされる。これをふまえれば、守だけにとどまるのは健全とはいえない。やがて破と離にも向かい、相対化して定点をもつべきだろう。

 戦後の、悪くいえば自虐史観とよばれるものには、父権主義(パターナリズム)的な面がなくはないだろう。押しつけということである。それをけしからんと言うのもわからないでもない。そうではあるけど、教育は、基本として、子どもが伸びたいほうに向かうのに任せるのが理想といえそうだ。まわりの大人は、幹をむりやり特定のほうへ向けようとするのではなく、邪魔な枝葉をすこし切ってやるくらいにとどめるのがよい。きれいごとではあるけど、そうした意見もあって、共感できるなと感じる。

悪口のルール

 相手が悪く言ってきたから、こちらもまた相手を悪く言う。そういう個人のなかのルールのもち方もある。このルールの持ち方にたいして疑問を感じるところがある。これをやってしまうと、けっきょく泥仕合のようになってしまう。どちらが先に悪く言ってきたのかというのは、にわとりと卵の関係のような気もする。先か後かというのは、当事者にとっては軽んじられないにせよ、客観的にはそこまで大差がないような気もしてしまう。何か言い訳のようにも響いてしまわないでもない。

 こちらから先にしかけないだとか、悪く言ってこない相手には何もしないなどの心がけは、決してまちがったものではない。偉そうな言い方になってしまうが、それはそれなりに褒められたものである。しかし、他者依存的なところが少し引っかかるのである。それは、自立したありようとはいえないのではないか。

 自立などといっても、そうかんたんにはできないときもある。ただ、他者依存的であると、関係や構造がぶつかり合っているようでいて、じつは大きな範ちゅうの中におさまってしまう。差異(アイデンティティ)が解消されると思うのだ。その解消は、プラスに出れば愛であり、マイナスに出れば憎しみだ。

 こちらが悪口を相手から言われるのは、事実としてみたらそれは実証的なものである。しかし、それとは別に、なぜそうなのかという点も見ることができる。完全に相手に非があるとは言い切れない。すると、そこに誤解みたいなのが関わってくることがありえる。誤解とは意思疎通における渋滞であると言えるそうなのである。

 この意思疎通の渋滞をどう解決するのかはけっこうやっかいではあるようだ。まず、双方が意思のやりとりをして、少しずつ解いてゆく。もしくは、解決は困難であるとして、一方もしくは双方がさじを投げてしまう。そしてまた別なものとしては、達観してあきらめてしまう、というのもあるという。気にしないようにする。

 勝手な注文ではあるかもしれないが、はたから見ていて、快くはないメッセージのやりとりや投げかけはできればつつしんでもらいたいかな。まったくやるなというわけではないけど、それは局所的な劇的効果として用いられればよい。でないと、方法として自覚してやっているというよりは、むしろ素朴に無意識(脊髄反射)で言いつのっているようにも見えてしまう。

 自己ルールというのは、自分もまたそのルールが適用される場に参加しているから、自分が第三者の立場に立つわけではない。だから、ルールの運用において完全に俯瞰して見ることはできそうにない。三権が分立していないみたいな感じだろうか。まったくルールなしというのよりは態度としては立派ではあるけど、ルールに寄りかかってしまうと、自己正当化になりかねない危うさもありそうである。

退位の決めかた

 みんなで議論をして決めるのではない。密室で、非公開のなかで、少数の人が決めてしまう。そういうふうにして、天皇陛下の退位をめぐる決定が、自由民主党のなかでなされてしまっているのだという。この点について、自民党石破茂氏は待ったをかけて、疑問を呈している。一強多弱の今だからこそ、その一強の優位さの真に有効な使いかたが問われている。

 なぜ、みんなで決めるのでないやり方がされてしまうのかというと、ひとつには、自民党は必ずしも国民全体のほうを向いていないせいではないかという気がする。そうではなくて、自分たちの利益集団のほうに顔を向けていそうだ。これは日本会議をはじめとする保守系の人たちである。そうした、顔の見える組織票を重んじている。あくまでも邪推にすぎないけど、そういう気がしてならない。

 報道調査では、退位については、一代限りではなく恒久制度がのぞましいというのが多数を占める結果が出ているという。多数にのぼるから正しいとはかぎらないわけだけど、少なくとも多数にのぼる側の意をくんで十分に議論されないとならない。でないと、開かれたありようとはいえないだろう。有識者は、国民というよりも、政権のほうの意をより多くくんでしまっている。天皇陛下の意向と、それに共感する国民(の一部)とを、ともに軽んじてしまってよいものだろうか。

 石破氏は、集団のなかで活動している人にはめずらしく、嫌われる勇気があると感じた。あえて自分が不利になるにもかかわらず、ということだ。自分たちの利益集団となる組織票のほうへ顔を向けるのではなく、たとえ顔が見えづらくとも、国民全体のほうをなるべく向こうとする。こうした心がまえがいるのではないか。いまの自民党は、石破氏が隠れた否定的な媒介項になっていそうである。それを抹消したうえでまとまりが成り立っている。国防なんかについてはともかくとして、天皇陛下の退位の問題については、それがかいま見られるところがある。

金利と産業

 銀行にお金を預けても、金利がほとんどつかない。これについては、現代の徳政令のようなものであるという見かたもとられている。預貯金の金利を低く抑える政策がとられてきて、今にいたるのだという。これによって、銀行が守られるわけだ。企業にもプラスにはたらく。かりに銀行の経営が危うくなっても、公的資金という名の税金によって穴埋めされる。大手銀行の場合はそういうふうになるだろう。

 海外と比べても、日本の銀行の預金の金利は低いから、それをいぶかしむような意見も目にしたことがある。日本にずっと住んでいる人はそのことには気がつかない。しかし、海外に出てゆく人は気がつくわけである。なので、海外の銀行なんかにお金を預けたほうがよほどよいという意思決定を、合理的に下す人もなかにはいる。

 あくまでも経済についての素人からの意見ではあるんだけど、銀行の預金の金利があまりにも低いから国内の景気があまりよくないのではないか。そういうふうに感じる。もっとも、今の日経平均株価の高さは官製相場という面もあるので、それは別にしてというわけだけど。そうしたふうに見てみたい気がする。というのも、もし金利がそれなりに高ければ、人はお金をたくさん使うようになるのではないか。そして、お金を貯めるべく、労働に精を出してよくはげむようになる。

 金利の低さと経済の調子の悪さを、相関させて見るのは必ずしも合ってはいないおそれがある。いま金利は低いわけだけど、経済の調子は決して悪くはない。失業率の数値も低いではないか。そうした意見も出すことができる。なので、少なくともそこは慎重に見ることをしないとならない。うかつに判断すると皮相的になることはまちがいない。

 かんたんに言ってしまうと、銀行の預金の金利が低く抑えられているのは、それなりの合理性もあるみたいだ。それは、多額のお金を銀行に預ける預金者には不都合ではあっても、資本主義の理にはかなっているのである。産業の面においては、なによりも資本の再生産がいちばん大切である。そのためには、お金をまず投資に回すべきであり、企業がお金を借りやすいほうがよい。金利が低いと、企業がお金を借りるのに都合がよくなる。

 専門家から見たらもしかしたら間違っているかもしれないけど、そういう事情があるそうなのである。しかし、いくらそうして産業資本主義の理にかなうように低金利の政策をやったとしても、日本は依然としてデフレを脱却できていない。これはなぜなのか。

 デフレを脱しきれていない要因はいろいろあるだろうけど、ひとつには、日本人はとりわけ古い商人的心性を潜在的に根強くもっているためかもしれない。前近代性だ。この心性は、お金である貨幣にたいして強い愛着をもつものだという。経済学でいわれる、流動性(お金)への選好である。財布のひもがなかなかゆるまない。だから、企業においても内部留保が改まらないのではないか。

像の姿勢の意味

 韓国の従軍慰安婦像(少女像)は、座った姿勢をとっている。なぜこうした姿勢がとられているのだろうか。その点に着目することができる。というのも、ふつう西洋のありかたにおいては、像というのは立った姿勢が一般的であると言われているためである。英雄の像なんかでは、立った姿勢でないとあまり様にはなりそうにない。像というのは、あるべき様を形にするものだから、いちばん価値があるとされる姿をとるのがふさわしいものである。

 慰安婦像が座った姿勢をとっているのは、そこに東洋的な心性があらわれていると見ることもできるかもしれない。西洋のように、明と暗をはっきりと対照的に分けてしまうのではない。戦前や戦時中は、韓国は日本の植民地になっていたこともあり、従属させられていた。その関係性によるありようも作用している。

 慰安婦像自体には、必ずしも対立の意図は含まれてはいないとも見られそうだ。といっても、これはあくまでも個人の勝手な解釈にすぎないのはある。そうした面はあるが、像が座った姿勢をとっているのは、平和や和解への意味というのが含まれていると見なせなくはない。もし敵対して戦おうとするのであれば、勇ましく胸を張り、立った姿勢をとるのがふさわしいが、そうしたふうではない。

 問題なのは、慰安婦像がどういった姿勢をとっているのかではなく、どういうあつかわれ方をされているのかにある。そういうふうに言うこともできるだろう。じっさい、像は座った姿勢をとってはいても、そのあつかわれ方としては、立った姿勢である臨戦態勢として受けとられてしまっている。これは、双方への誤解も一部には含まれているところがある。

 じっさいには像は座った姿勢をとっている。しかし、現実にはそれが無理にでも立たせられてしまっている。そのような面がありそうだ。なぜ立たせられてしまっているのかというと、そこに道徳志向性がはたらいているせいもあるだろう。道徳として、理が付与されている。きつく過去を問いただしている。しかしそれだけではなく、うらみもありつつの日本への多少のあこがれである恨(はん)もあるとすると、そこには複雑な気持ちがこめられているわけだ。

 座った姿勢の像だけではなく、もしかすると立ったものもあるかもしれないから、こういうものだと決めつけてはいけないだろう。また、像の姿勢に意味を見いだすのは、瑣末なことであるおそれもなくはないのもたしかである。やはり、形象(見かけ)がどうであれ、それとは別に、立たせられてしまっている点が深刻だ。これによって物象化がおき、おたがいにぶつかり合ってしまう。